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環境・平和・山・世相 コジローのあれこれ風信帖

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2008年11月20日
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 またまたブログの更新はご無沙汰。毎日、なにかと忙しいんだよなあ…で、更新できていないことが気になりながら過ぎてゆくのが実情だ。 でも、いつ書こうが自由なブログとは違い、どうしても書かなくちゃならない事情の原稿というのはあって、これだけはいくら忙しくても、なんとか締め切りギリギリで書き送って迷惑をかけないようにしている。ということで、以下は今日、紀峰山の会の機関誌に掲載したコラムです。 

 

信仰登山とアルピニズムを考える

 山を征服する対象ととらえるか、それとも信仰の対象ととらえるかは、ヨーロッパ発祥のアルピニズムと日本古来の登山文化を比較考量するうえで、必ず取り上げられるオーソドックスな視点といえるだろう。そうした彼我の登山思潮の差異にはもちろん、両者における山岳自然の違いが色濃く投影されている。

 豊かな降水と温暖な気候に恵まれ、幾多の生命に溢れて穏やかに優しい日本の山岳自然は、その豊穣さゆえに神宿る地のイメージを強く喚起しつつ、ときにはそれ自体が神として信仰の対象となった。

  一方、無機質な岩と氷河と荒涼たるモレーンに覆い尽くされた峻険なヨーロッパアルプスは、その険悪な全存在を懸けて人間を厳しく拒絶して悪魔の住処と恐れられ、またそれ故にこそルネッサンス以後、神の恩寵を受けた人間が征服すべき対象とされた。アルピニズムは近代科学技術とともにその出自において、人間の可能性への確信を高らかに歌い上げたルネッサンス精神の化身であったのだ。

 その西欧科学技術への無邪気な盲信が、やがては現代における地球環境の危機に繋がってゆくのだが、それはまた別の機会に論ずるとして、ここではアルピニズムと信仰との調和ないしは妥協の可能性について考察したい。

 で、ようやくここからが本題なのだが、この夏、たまたま仕事で東北に出張する機会があったので、そのついでに久しぶりに山形県の月山(1984m)に行った。ん~、正直かつ正確にいうと、気持ちの上では仕事の方が「ついで」だった感なきにしもあらずなのだけれど、ともあれ出張の仕事をつつがなく終え、その翌日にはレンタカーで月山の入口姥沢(うばさわ)に移動、早速山装束に身を固めて登高リフトに乗った。

 日本有数の豪雪で知られる月山は夏スキーの本場だ。冬の間はリフトが埋まってしまうような大雪で使用できず、他のスキー場がシーズンを終えるゴールデン・ウイーク頃にオープンして例年7月中旬頃までは営業している。このときも、Tシャツ姿の大勢のスキーヤーが二つの大きな雪渓に別れて遊んでいた。

 もう10年以上昔になるが、前に来たのは春でまだ一面銀世界だった。山スキーで月山から無人静寂の湯殿山まで縦走をかけて新緑の山麓へ滑降、湯殿山頂上から当時まだ世に出たばかりの携帯電話で呼んであったタクシーで姥沢に張ったテントに戻る山行だった。翌日は鳥海山山頂から豪快な大滑降を堪能したことを思い出す。

 一転して、真夏の月山の登山道はリフトを降りてから左手の姥ヶ岳の中腹に延び、そこから右手へ木道をたどって雪渓を横切り、やがて山頂台地に続く岩混じりの急峻な山道に入ってゆく。ここで、あろうことか長蛇の大渋滞だ。たいした人出でもないのに…と不思議に思って上の方を観察してみたら、信仰登山のいくつかのグループが思いっきり遅いのだった。日頃、山など歩いたことがないに違いない。

 月山は湯殿山そして羽黒山からなる出羽三山のひとつで、信仰の山であることくらいは知っているから、羽黒修験者の出で立ちの一行がいたって驚きはしないのだが、このペースではいつ頂上に着くやら分からない。しばらく我慢して後についていても道を譲ってくれそうにはないので、抜かせてもらおうと横をすり抜けようとしたら、とんでもない大声で一喝叱責された。先行者を抜くことはあいならんということらしい。

 まあ、こちらもオトナだからぐっとこらえてケンカは避けたが、その後も眠気に襲われそうになるほど遅いので列を離れ、先に弁当を食べることにした。ゆっくり食事を終えて時間をつぶしてから、ようやく前が空いた道を軽快に登ってゆくと、やがてくだんの修験者ご一行様がバテて座り込んでいる。まあ、挨拶もせずに行くのも何だから、先ほどの一喝の御仁に「抜かせてもろてもよろしおますか?」と慇懃にひと声かけたが、息も絶えだえの修験者殿からは何の返事もなかった。

 軽快に登ればすぐに頂上台地に飛び出す。山頂らしき高見に祠が見えていたのでめがけて歩いてゆくと、その直下に木製の門と小屋があって登山者を呼び止めている。小屋には「お祓い○○円」と書いてあったが、当方お祓いなんて不要なので関係ないと通り過ぎようとしたら、またここでも一喝された。金を払ってお祓いを受けないと門は通さないという。「神もホトケもあるもんか」が信条ではあれ、機嫌が良いときならカンパと思って出す程度には人間デキているつもりだが、あいにく、このときは先の修験者の一件があって極端に虫の居所が悪く、加えてこの無銭飲食呼ばわりで完全にキレた。

 「なんだとお?これはお前の山か?」「だいいち、俺はムスリムやぞお!」「お祓いなんか受けてアラーの神から天罰受けたらおまえ、責任取ってくれるんか?」.…なんてまあ、訳の分からないアホなごねかたもしてみたけれど、この騒ぎでだんだん人だかりもしてきたので抵抗はあきらめて退散した。あまりに悔しいから、迂回して裏に回ってみたが、やはり頂上はがっちり柵でガードされていて登れない。○○円払わないと絶対に登らせないというわけだ。これには心底げっそりした。

  登るのに金を取る山は月山以外にも、倶留尊(くろそ)山などいくつかある。まあ、楽しませてもらうのだから、登山道やトイレの整備などに必要な資金の分担を求められれば払う用意はもちろんある。しかし、「お祓い」が通行の条件となれば話は別だ。先のムスリム(イスラム教徒)はもちろんウソだが、実際に戒律の厳しい別の宗教の熱心な信者が登ってこられることはあるだろう。そうした人たちに、たとえ私有地ではあっても、例えば日本百名山の一座といったパブリックな場に立ち入るに際し、特定の宗教に帰依することを強要していいのか。読者諸兄ならどう考える?

 (女人禁制の大峰山にも類似の問題はあるわけだが、率直に評して大峰山は登山の対象の山としての魅力では月山と大差がある。大普賢岳や弥山に登れるのであれば登れなくたって別にどうってことはない山だから、まあ許してもいいか…と思うのだが、この点もあわせて、いかがだろうか?)

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最終更新日  2008年11月20日 23時16分59秒
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