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2009年08月07日
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カテゴリ:漢詩 日記

                 げんさい むじょう
        歌謡吟   彦斎無情       【歌謡吟(テープより)】
                 
                    まつしま
             (歌)  松島みず代。(作曲・編曲 植村路雄)。 作者小山 良。

          なみだ       わか            あ そ   ごじん か  み おさ
     1、涙  をためて別れをつげる、 阿蘇の御神火 見納めなのか。
 
           め  ざ    きょう  あらし あめ      とき    なが    いしん   い    
        目指すは京 ぞ嵐 か雨 か、 時世の流れの維新に生きる

           かわかみげんさい はな  ぶし

        河上  彦斎  花の武士。   

          たすき  ひも  あさひ   は         な     て   ふ  ひ   くに
     2、襷 の 紐が朝日に映えて、  泣いて手を振る日の国つばき。

           たっしゃ   く    あさひ         はな いのち むだ
         達者で暮らせ朝日にかけて、花 の命を無駄にはするな

           げんさいむじょう  せな   な
         彦斎無情 と背中で泣く。

    (吟)
        せいせい るてん  じんせい いちろ        ぎんなんじょう  はる  いくたび
      生々 流転か人生 一路。    銀杏 城 に春は幾度。

         ゆうきゅう るいるい ふるさと             と わ   さか    いくさんが
       悠久 累々  故郷よ。       永久に栄えん幾山河。

       なさ  むよう  かぜ き  やいば    つき  かざ    こ   どう  ぬ
    3、 情け無用に風 切る刃、   月に翳した此の胴だ抜き。

        うら     こ   み にほん  ため      かも  なが   つきかげ だ
      恨むな此の身 日本の為 ぞ、  鴨の流れに月影 抱いて、

       げんさい  よ あ    ゆめ  み
      彦斎 夜明けの夢 を見る。

松島みず代さんの声もよく吟じ込んだ吟詠が素晴らしいので、この歌を投稿する事にしました。但し、この吟の部分の詩は漢詩(絶句)ではありません。平仄・韻など無視してありまして只、歌として作られたものと思われます歌謡吟として充分楽しめます。
                                                 
河上彦斎(1834~1871)(佐久間象山暗殺する)
 熊本・肥後藩士・小森貞助の子として生まれ、幼い内に同藩の河上源兵衛の
 養子となる。16歳で細川家の掃除坊主となり、更に家老付きの坊主となる。
 轟武兵衛に儒学を学び、兵学を吉田松陰の友人宮部鼎蔵(池田屋騒動で死
 亡)に、国粋・敬神思想の持ち主である林桜園に国学を学ぶ。この3人の師に
 よって彦斎は尊皇攘夷思想を培養させ節を曲げることはなかった。

 彦斎は脱藩せず尊攘活動を行った。尊攘の気配が強くなると彦斎は評価され
 て京に上り、肥後勤皇党の幹部格として認められる。その頃「天誅」ばやりで
 新兵衛や以蔵が暗殺に奔走していた。彦斎もこの時期かなり人を斬ったとい
 われるが誰を斬ったか解らない、それだけ緻密に秘密裏に暗殺をやってのけ
 たという。竹刀の試合ではいつも負けていたが真剣を持つと凄味があった。

 政変が起こり七卿と共に彦斎は、長州へ下り、そして池田屋騒動の直後再び
 上洛。このころ佐久間象山が朝廷の海陸防備御用として活躍しており、攘夷
 派にとっては許せない。象山は京都・木屋町三条上ル、高瀬川に沿った通り 
 の路地の一角に仮寓していたが、付近でこれを急襲、元治元年(1864)7月
 11日午後5時。因州藩士・前田伊佐衛門と壱岐・松浦虎太郎の二人が、まず
 両側から馬上の象山を襲い、象山は左股に傷を受けながらも馬腹を蹴った。
 走り出した馬の前に彦斎が立ちふさがり、象山は落馬し、一瞬に腹部を横ざ
 まに切り裂かれた。次の瞬間象山は頭を斬り割られていた。象山暗殺は成功
 したが彦斎はこの時「あまりの大物相手に、髪の毛の逆立つた」と、以後暗殺
 をやめたといわれる。後、藩主から「人を沢山斬ったので用心のため改名せ
 よ」といわれ、高田源兵衛と改名したが明治4年(1871)長州から逃亡してき
 た罪人を匿った罪で伝馬町の牢に入れられ12月4日首を切られた。38歳であ
 った。
彦斎無情
      熊本城(別名:銀杏城)
右写真は、河上彦斎の故郷・熊本県の山あり川有りの幾山河・阿蘇五岳の景 

彦斎無情
映画全盛時代、「人斬り彦斎」が上映されましたが別の映画の一駒の写真を彦斎に仕立ててます。右図は京都佐久間象山他、維新の人達の事件跡地または、暗殺された付近地図

彦斎無情
  佐久間象山暗殺図     佐久間象山遭難の地場所京都木屋町付近(地図は上記に)

(河上彦斎は人斬りとして異名のある一人ですが余談として幕末には、人斬り新兵衛(田中新兵衛)。人斬り以蔵【岡田以蔵】。人斬りの中でも彦斎は知識人である。また薩摩の桐野利秋は西郷隆盛の腹心として活躍し西郷と共に戦死したが、人斬り半次郎(中村半次郎)という異名があった。(明治になって桐野と改名陸軍少将にもなっている)。





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最終更新日  2009年08月08日 21時24分08秒
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