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カテゴリ:エッセイ
先日子供達の対応があまりにも適当だったので、お父さんとしてこのままでは子供達の人生によろしくないと考えて、あることを強制することにした。 それは、「どっちでもいい」とか「なんでもいい」という返事を家庭内では禁止するというものだ。
何かを尋ねられたときに、この「どっちでもいい」とか「なんでもいい」という返答をする日本人はとても多い。もちろんお父さんもそういう返事をすることは多々ある。あまり人の事は言えないのだが、仕事などに対してはこの言葉を使わないように意識している。
「どっちでもいい」とか「なんでもいい」は、日本語ではとても便利な言葉である。何か食べたいものがあるかと言われて、「なんでもいい」と答える人は多いだろう。逆にこの言葉を使ったことがないという人はいないのではないだろうか。 しかしながらこの言葉は、考えることを放棄し、相手にすべてを押し付ける言葉である。決して相手に対して敬意を表して、そちらの意見に従いますという言葉ではない。
その証拠に、「なんでもいい」という返答をしても、「じゃあこれにします」と言われると、「えー!」とか「それはちょっといやだ」と言う返答をする人が多々いる。つまり「なんでもいい」と言いつつも、相手に主導権を渡しているわけでは無いのだ。 極端な言い方をすると「私が納得のいく答えを考えてだせ」と言っているのと変わらない。
我が家でも、外食しようとする時などにこのやり取りはよく行われる。父「外食するけど食べたいものはあるか?」、子供達「なんでもいいよ」、父「じゃあ焼肉にいくか」、子供1「焼肉はいやだ」、父「じゃあ回転すしにするか」、子供2「寿司の気分じゃない」、子供3「うどんが食べたい」、子供2「うどんは嫌だ」。 上記のようなやり取りがしょっちゅう行われている。どこの家庭でもあるのではないかと思うが、どうだろうか。
上記のようなたいして重要でない案件では、お父さんの気分が悪くなる以外にあまり被害はないのだが、これが仕事になるとそういう訳にはいかない。「なんでもいい」と言う人は、仕事においては「無能」とお父さんは意識するようになる。無能とまではいかなくても「やる気がない」として評価する。 もちろん、「なんでもいい」と言った後に、決定に対して文句をいう人間は最低の評価になる。「自分が決めたわけでは無いから、協力も気分次第だし、責任も取らない」といった態度や発言が出れば、もうそれは決定的に低評価になる。
我が家の子供達も、家族と言う「甘え」があるのだろうが、もうそれなりに自分の言動に責任をもたなくてはならない年齢になっている。自分で考え、決断して行動するという一連の流れを訓練していかなければならない。 人に任せて主体性をもたないということは、楽ではある。そして相手を見下している場合は、実に悪質だとお父さんは思っている。
お父さんは自分の子供達にそういう人間にはなってほしくないので、理由をきちんと説明したうえで、「どっちでもいい」とか「なんでもいい」と言うのを禁止した。 きちんと意思表示をする、きちんと自分の事として考えることができるようになってほしいと思っている。
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最終更新日
2024.05.14 00:10:12
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