副題:空襲の余波で3世帯同居
1945年3月10日「東京空襲を記録する会」の資料によると、
米軍の爆撃機B29約300機が、上空から炎をあげて火災を起こす
「焼夷(しょうい)弾」約1700トン分を2時間半、落とし続けた。
現在の墨田、江東、台東区はほぼ壊滅した。
東京全体で27万棟が焼けて訳100万人が家を失った。
1945/3/11朝日新聞
空襲警報が頻繁に発令されるようになった。何度も弟たちと防空壕に入った。
狭い空間の雰囲気にワクワクするような気もした。
浦和は爆撃の目的地ではないと父が言うので、ときどき布団から起き上がっては、
『怖いものみたさ』で。入口から、代わる代わる夜空を飛ぶB29を見上げた。
赤羽の高射砲陣地からの探照灯(サーチライト)が交錯しては交わり、
ひときは明るい菱形を作る。オレンジ色の光の中に捉えられたB29は、銀色に輝いて
神秘的にさえ見えた。高射砲の発射音が聞こえるが、敵機の高度には届かなかった。
「今夜は風が無いから、そんなには燃え広がらないだろうと思っていても、
大量の焼夷(しょうい)弾により火災が発生すると、上昇気流が起こり、
風を起こし被害が拡大するのだった。東京の被害の悲惨さは、9才の私にも理解できた。
地下壕で死亡する人々が続出した。との悲劇が生まれていたことを知ったのは、
ずっと後のことだ。
被災地地図
焼け跡 何故こんなに」大勢の人が??? 背景にはこんな記事が???
我が家は被災しなかったが、東京や川崎で被災した親戚の二家族が同居することになり、
11人の大所帯となった。
http://historyjapan.org/great-tokyo-air-raid-2第2次世界大戦中,1945年3月10日の
アメリカ軍による東京の下町を中心とした地域に対する大規模な空襲。
爆撃機ボーイングB-29を主力とするアメリカ陸軍航空隊の日本本土空襲は,
マリアナ諸島に基地が完成した 1944年11月から本格化した。
東京は 1945年3月10日,4月13日,5月25日の 3回にわたる大空襲を中心に
前後 102回の空襲を受けた。
3月10日午前0時8分から始まった空襲は,日本爆撃作戦の転機を画したもので,従来の
軍事施設に対する昼間精密爆撃とは異なり,戦闘員・非戦闘員無差別の,
木造家屋密集地帯に対する夜間焼夷弾爆撃であった。爆撃機約 300機が来襲し,約1700tの
焼夷弾を投下,10日早暁にかけて大規模な火災による旋風が発生し,東京の全建物の
4分の1が破壊された。8万人以上(一説には 10万人以上)が一夜にして焼殺され,
100万人が家を失った。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
他の資料では当日は風が強く、日本のレーダーをかいくぐっての低空飛行で侵入したとの
記述もある。