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テーマ:戦ふ日本刀(97)
カテゴリ:戦ふ日本刀
死か生か 下の道を兵隊が西へ移動して行く。 大地を強く踏む軍靴の音がする。みな若い兵隊だ。 二十八日に自動車隊と前後して行軍してきたあの◯◯部隊が到着したものらしい。 後から後からと続いて来る。騎兵も来る。砲兵も来る。 あちらからも、こちらからもみな顔を出して見ている。 行軍というものは、内地で見ても、誠に勇ましく、頼もしいものであるのに、 こうした陣中でその音その列を見る時、なんとも言えぬ心強さを感ぜしむるものだ。 夜は何度も起こされた。 急に明朝出発命令を受けたという人たちが、入り代わり立ち代わり、 修理の催促にやって来たので、とうとう十一時頃から工場を開き、 ロウソクの灯をアンペラでおおいかくして、修理を始めた。 我が砲兵は、つい近くに砲列を敷いたらしく、 ドーンと打ち出す弾丸は、しばらくワウーウーとあとを曳いて行くのが、 樹々にこだまして何とも言えぬ豪快さ。 こうした徹夜の仕事の終わりに朝が来た。 どうやら支那も梅雨に入ったらしく、夜明け頃からジタジタ降ってきた。 例になく、朝から砲撃が始まった。 九時頃から、一斉にこの辺の集中射撃らしい。 ドジンドジンと、あっちこっちに落ちる。危険がいよいよせまって来た。 大越中佐が工場へやって見えた。 「今日は工場をしまってはどうです。」 「ハイ。」 しかし、工場は相当忙しかった。 それに、室に引っこもっていると、いろいろと考え込んでいけない。 仕事をしている時は何もかも忘れている。 「どうです。今日はもうおしまいにしなさいよ。」 中佐は重ねて言う。 そこで一時仕事を中止して室に帰ると、こうした危険な中を通って軍刀をとりに来る。 出来ていないというのが、いかにも心苦しいので、また工場へ出た。 この日の砲撃は実際ひどかった。 敵はよほど近づいていると見えて、雨のように大小の砲弾が落ちてくる。 作戦の齟齬? そんな事をさえも考えさせられた。 我が砲兵も必死に撃つ。戦争は全面的らしい。 戦況観測の我が繋留気球も、高く悠々とあがっている。 気球からの報告では、敵は数里の半円形をなし、 我を包囲して迫って来ているのが手にとるように看取されるという。 午後二時頃だ。 しぶり腹の気味で、一日に数回も便所へ往き来した自分は、 工場の隅っこに穴を堀ってしようと考えていた瞬間、 頭をかすめたのは、「日本刀の霊威」であった。 こうした武士の魂の修理場で、用便は出来ん。 そう思って、半丁ほどある西の便所へ行きつくと、東の方で地響きと共に恐ろしい音がした。 かなり大きな何物かが墜落したらしい。 用便もそこそこに、急いで帰ってみると、工場の中は濛々たる土煙である。 隣家との間の木の根もとに砲弾が落ちた。 幸いに炸裂はしなかったが、その震動で屋根の残土が落ち込んだのである。 まったくの天佑であった。 この弾丸が炸裂したら、そしてその時自分がここで用便をしていたら、 定めし醜い死屍となっていたことだろう。 砲弾はますます落下する。部長からとうとう命令が出た。 「全員掩蓋壕〔えんがいごう〕に這入れ。」 自分はまず室に行った。 各隊には、家の中庭の隅に掩蓋壕が造られてある。 室には、釜田曹長が病んでいる。何としても、壕へ這入らぬと言う。 部下の兵がいくらすすめても聞き入れぬ。 病では死なぬ。弾丸で死ぬ。こう言って動かぬのである。 みんなもこの室に籠城する事にした。 大きな砲弾が、屋根の上を唸って過ぎた。 こうした無気味な大砲戦の中に、夜となった。 夜に入ってますます砲撃は甚だしく、 ただごうごうと単調化された、ものすごい唸り声の渦巻きとなった。 この中に砲兵歩兵は勇敢に戦っているのだ。 タンタンタンという機関銃の音もしている。ワーッというような声も聞こえてくる。 ガラガラン、と、何かくずれ落ちる音、疾走してゆくらしい戦車の爆音。 扉の間から外を見ると、あっちこっちの空には赤い光がパッパッと映じている。 青い光焰〔こうえん〕が尾を曳いて飛んでいる。 今日は三日である。砲弾は、まだ続いている。 こうした中でも、炊事兵は飯を炊き、汁をつくって持って来てくれる。 飛行機の爆音だ。ありがたい。三台、西の上空を旋回している。 やがて、急所急所に爆弾を落とすらしい。 心強い爆弾の音を聞いて、朝食をとっていると、 こうした中にもかかわらず、修理がどしどしやって来る。 今日も工場を開設して、十時頃から仕事を始めた。 砲声は相かわらずすさまじいが、 彼我ともにその音は次第に遠ざかって行くように思われる。 思えば、昨日は死ぬという事を本当に覚悟した。 部長以下全員、一人として然らざるものはなかった。 自分は黄河で泥まみれになった軍服を出してその土を落とした。 友人松田君ほか十数名の餞別品だ。 子供のつくってくれた袋、その中から子供の贈り物の鏡を出した。 自分の垢だらけの髭面がうつる。笑ってみる、子供らの顔が見えてくる。 ……この日朝来敵軍近接し来りて砲火を集中す。 我が軍また全面的に砲撃す。本部の各所に巨弾落下して炸裂の音物凄し。 然れども不思議なるは道路庭等の空地にのみ落下する事なり。これ天佑か。 石井部長以下、各一死を覚悟して、終日此の中に立ち働く。 同じ棟続きに起居を共にし、同じ鍋の飯を食いたる人々の氏名を記す。 石井廣吉、大越幸一、石井勇之助、岡島靖一郎、戸室龍、宮川元弘、 釜田藤男、堀山競、樫村徳一、小野内記、倉持武雄、小堀三喜夫、岡村十一郎、 黒澤盛義、高橋龍助、湯本佳元、秋山武夫、唐澤正、大塚士郎、百々瀬末利、 齋藤常盤、岸田真治、中島一、浅川義男、沼田清治、内田守、小島公平、 磯飛貢、鈴木吉夫、西村三代治、小林角治、沼口宗一郎、以上三十二名、 と書いた。 さらに何かその時の心持ちをあらわしてみたかった。 たまの雨のなかにひねもす働けり心たらひて今宵もやすまむ わが友のはなむけくれしこの服もくろぐろと土によごれたりけり ゆくりなく袋に吾子〔あこ〕の入れくれし鏡とりいでひげづらをうつす 玉きはる命の終わりおごそかに知り得たるこそまたなくありけれ こう書いて自分は何とはなしに安心した気もちになった。 この手帳を、ブリキの箱におさめ、 さらに雑嚢の底に入れ終わって、ロウソクの灯を消した。 不寝番の兵隊が歩いているらしく、ごつごつと靴の音がする。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2017年09月27日 09時05分47秒
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