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テーマ:今日の出来事(292569)
カテゴリ:『あたりまえ』を考える
数日前、共有の山道が、再舗装された。ひび割れも、でこぼこも、すべて修正され、クルマで走ると、そのスムーズさがよく分かる。犬の散歩でそこを通りながら、ふと思った。
この再舗装を喜んでいるのは、おそらく人間だけだろう。 近所同士がお金を出し合い、道路が痛んできたからと、業者を雇って日程を決め、そして舗装を決行。これはあくまで、人間が勝手に決め、人間が許可し、人間が強引にやってしまうことだ。そこにもともと住んでいる生き物たちへの影響は、考慮の対象外の外。 木が育ち、根が大地を押し上げ、古い舗装がひび割れて、酸素や光が入る。その隙間に雑草が生え、微生物や昆虫が暮らし、その隙間に息づき始めていた命が、どれくらいいたのだろうか。それはきっと天文学的な数だったろう。 彼らの命を尊重して、この再舗装を取りやめようと言う動きは全くなかった。というか、そんなことにポイントを置く人自体、いなかった。 当たり前…なんだろうか? これが実は、あらゆる場面で生きている。例えば食用の生き物などもそうだろう。 牛・豚・鳥・魚・くじら・イルカetc… 私たちにとっては、彼らは食べられて当たり前。犠牲にして当たり前。どんな状況で育ち、どんなふうに、どれだけが消費され(殺され)…なんて、考えるべきことじゃない。美味しくて、新鮮なのが手頃に入れば、それでいいのだ。 そして政治もそうだろう。末端の存在(人間も含む)は置き去り。支配階級の利便が中心に考えられている。末端庶民の幸せ?発展途上国の人たちの犠牲?そんな事は、言い訳程度にしか考慮されていないのが、現実だろう。 私たちが他の命にしていることは、私たち自身に返ってくる、ということだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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