フリーペーパー毬の中心にあるのは「愛」
<エーリッヒ・フロム『愛するということ』から>フロムは精神分析学の学者で、新フロイト派の代表と言われています。社会的な観点の強い人で、この著書では愛と社会を結びつけて書いていますが、「愛とはなにか」という本質的なことを考える参考になりました。本ではわかりやすく書いているせいか、多少論理が強引な印象もありますが、精神分析家だけあって家族関係や恋愛関係と愛の話はとても興味深いです。この本では「与える」ということになんどか触れられます。愛の本質のようなものを考えていくと、「精神的に与える」ということが愛と切り離せない気がします。毬は最初「愛」をコンセプトに発行しました(「愛の計り売りします」というコピーが表紙に書かれてあります)。途中から中沢新一の『純粋な自然の贈与』の影響と、マルセル・モースの贈与論の影響も受けて「贈る(与える)」になりました。表現は変わりましたが、毬の基本的なテーマは「愛」のまま変わっていません。以下、フロムの本を抜粋してご紹介します。本のごく一部ですが、愛について考えてみたくなる方がいるとうれしいです。※< >内が抜粋。<何が人を魅力的にするかは、肉体的にも精神的にも、その時代の流行に左右される。…全世紀末から今世紀初頭にかけて、男が魅力的な「商品」になるためには、大胆で野心満々でなければならなかった。今では社交的で寛容でなければならない。…いずれにせよ、ふつう恋心を抱けるような相手は、自分自身と交換することが可能な範囲の「商品」に限られる。私は「お買い得品」を探す。…市場で手に入る最良の商品を見つけたと思ったときに、恋に落ちる。…それまで赤の他人どうしだった二人が、たがいを隔てていた壁を突然取り払い、親しみを感じ、一体感を覚える瞬間は、生涯をつうじてもっとも心躍り、胸のときめく瞬間である。…親しくなるにつれ、親密さから奇跡めいたところがなくなり、やがて反感、失望、倦怠が最初の興奮のなごりを消し去ってしまう。…たがいに夢中になっていた状態、頭に血がのぼって状態を、愛の強さの証拠だと思い込む。だが、じつはそれは、それまで二人がどれほど孤独であったかを示しているにすぎないかもしれない…。 愛とは、特定の人間にたいする関係ではない。愛の一つの「対象」にたいしてではなく、世界全体にたいして人がどう関わるかを決定する態度、性格の方向性のことである。もし一人の他人だけしか愛さず、他の同胞には無関心だとしたら、それは愛ではなく、共生的愛着、あるいは自己中心主義が拡大されたものにすぎない。 ほとんどの人は、愛を成り立たせるものは対象であって能力ではないと思い込んでいる。…「愛する」人以外は誰も愛さないことが愛のつよさの証拠だとさえ信じている。…一人の人をほんとうに愛するとは、すべての人を愛することであり、世界を愛し、生命を愛することである。隣人を一人の人間として愛することが美徳だとしたら、自分自身を愛することも美徳であろう。…利己的な人は自分自身にしか関心がなく、何でも自分の物にしたがり、与えることには喜びを感じず、もらうことにしか喜びを感じない。利己的な人は外界を、自分がそこから何を得られるかという観点からのみ見る。他人の欲求にたいする関心も、他人の尊厳や個性にたいする尊敬の念も、もたない。…そういう人は根本的に愛することができない。…利己主義と自己愛とは、同じどころか、まったく正反対である。利己的な人は、自分を愛しすぎるのではなく、愛さなすぎるのである。実際のところ…自分を憎んでいるのだ。> このようにフロムは明確に、手厳しく、愛の概念を絞っていきます。飛びますが、本の最後のあたりを紹介します。 <…信念をもつには勇気がいる。勇気とは、あえて危険をおかす能力であり、苦痛や失望をも受け入れる覚悟である。安全と安定こそが人生の第一条件だという人は、信念をもつことはできない。防御システムをつくりあげ、そのなかに閉じこもり、他人と距離をおき、自分の所有物にしがみつくことによって安全をはかろうという人は、自分で自分を囚人にしてしまうようなものだ。愛されるには、そして愛するには、勇気が必要だ。ある価値を、これがいちばん大事なものだと判断し、思い切ってジャンプし、その価値にすべてを賭ける勇気である。 人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは、無意識のなかで、愛することを恐れているのである。愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだけることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない。 現在のようなシステム(注:資本主義を指す)のもとで、人を愛することのできる人は、例外的な存在である。現在の西洋社会においては、愛はしょせん二次的な現象である。…人を愛することができるためには、人間はその最高の位置に立たなければならない。人間が経済という機械に奉仕するのではなく、経済機械が人間に奉仕しなければならない。…人を愛するという社会的な本性と、社会的生活とが、分離するのではなく、一体化するような、そんな社会をつくりあげなければならない。 愛の可能性を信じることは、人間の本性そのものへの洞察にもとづいた、理にかなった信念なのである。> 最後のあたりは少し説教じみていますが、愛と社会と結びつける視点は、現代の公共哲学につながっていると思います。愛することができるには自分自身を最高の位置に置く…これは現代人にはなかなか難しそうです。経済観念や利己主義の力はとても強力で、最高の位置を奪われているからです。それを打破できるのも愛だと思います。愛は信念でもあり、現実的な力でもあると思います。毬は、愛の力を信じています。