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曹操注解 孫子の兵法

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Feb 18, 2015
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カテゴリ:カテゴリ未分類
今年、「本能寺の変」直前の長宗我部元親の手紙が岡山県立美術館「戦国大名 宇喜多氏と長宗我部氏」展で公開され、
2月4日放送のNHK歴史秘話ヒストリアで紹介された。

その内容は、本能寺事件の直前に元親が、光秀の家臣で肉親の斎藤利三を通じて、降伏命令を受け入れるというものだった。
実際に元親は光秀に使者を送り、和睦したいと信長に申し入れている。
これは直ちにはねつけられた。
すでに摂津有岡城の荒木村重、大和信貴山城の松永など、元親のような謀叛人の仕置きは定まっていた。
本人自害、家族斬首、首は京都市中にさらし、領地は没収。
この仕置きに異論をはさむ者も謀叛の加担者として連座処分される。

つまり、光秀と斎藤利三は、この連座責任にひっかかったのだ。
この書状がそれを証明している。

これに先立つ天正3年(1575)、土佐を統一した長宗我部元親は織田信長に同盟を求めた。
この時信長は元親に「四国は切り取り次第所領にしてよい」という朱印状も出したという。
天正8年(1580)6月、元親は阿波岩倉城の三好康俊を服属させたことを信長に報告した。
また今後の阿波征服のため、康俊の父、三好康長が長宗我部に敵対しないように働きかけてくれるよう依頼、いずれも了解を得た。
この頃は光秀が取次役として元親・信長の交渉窓口となっていた。

ところが、三重大学の藤田達生教授によると、同じ頃、三好康長と羽柴秀吉が急接近。
その目的は、当時交戦中だった毛利氏に対抗するため、三好氏に旧臣を束ねさせ、瀬戸内海の水軍で加勢させるためだったのではないかと推測する。

天正9年(1581)3月、三好康長は秀吉の支援を得て讃岐から阿波に入り、長宗我部に抵抗をはじめた。
同年6月、信長は長宗我部氏と三好氏が協力することを求める朱印状を各諸侯に出す。
ここから秀吉に押しきられる形で、信長の四国政策が急転換する。

長宗我部氏に圧迫された阿波の三好氏、十河氏、伊予の諸侯は信長に救援を求めた。
これに対して、信長は元親に土佐一国と阿波南半分の領有のみを許し、他の占領地は返還するよう命じた。

しかし元親は、自分の四国征服はかつて信長が認めたことだとはねつけた。
明智光秀は石谷頼辰を派遣して元親を懸命に説得したが、天正9年(1581)後半に織田・長宗我部の交渉は決裂。

同年前半に京都馬揃えで信長の面目をほどこして見栄をきった光秀は、一転して四国担当を更迭され、一時無役となった。
家康の馳走役など、そもそも大名の仕事ではない。

実は長宗我部氏と毛利は密かに協調関係にあった。
信長の四国政策の変更は、元親が四国を統一したとたん、毛利を支援して裏切りに出るのではないかという疑惑の確信に基づくものだった。
実際、讃岐(香川県)に侵攻した元親は同年9月、毛利の使者を迎えて同盟を結んだ。

この情報をつかんだのは、秀吉の軍師、官兵衛孝高である。
官兵衛は先祖から引き継いだ売薬の販売ルートから瀬戸内海一円に情報を通知するネットワークをはりめぐらせていたのだ。
そこで元親に対抗する伊予(愛媛県)の諸侯は、官兵衛を通じて、中国攻めの陣中にあった秀吉に人質を差し出した。
直ちに秀吉は官兵衛に淡路攻撃を指示した。

翌10月、秀吉は淡路志知城に進出していた官兵衛に、長宗我部氏に抵抗する勢力に兵糧・弾薬の補給を命じる。
もちろん、これは信長の承諾を得てのこと。
これが長宗我部征伐の始まりだった。
もう引き戻しはできない。

11月中旬には秀吉も淡路に渡り、籠城した由良城の安宅貴康を降した。
黒田家所蔵の備前長船祐定の名刀「安宅切」は、切腹した貴康の首を孝高が介錯、斬り落としたものである。

天正10年4月には塩飽諸島も能島村上氏から離反して秀吉に属した。
これは信長の四国政策の変更が、秀吉と官兵衛が策したものという背景の事情を示すものである。
明らかにライバル明智光秀の長宗我部調略の功績を狙い撃ち、ぶち壊してめちゃめちゃに排撃するものだった。

さて光秀は京都馬揃えを通じて、信長が太政大臣になる助けをして、ほとんど実現するところだったのだが。

しかし、秀吉は「いま急ぐことはありません。まず毛利と長宗我部を打ち破り、九州地方を平定し、おおかた日本全土を制覇してから関白をお受けになられてはいかが」と消極的に意見する。

このままでは光秀は皇室を擁して信長第一の家臣とされるにちがいなかった。それは絶対に邪魔しなければならない。
ここに官兵衛が知恵を出し、毛利と長宗我部の懸案を持ち出したのである。

こうして信長は「時期が悪い」と官位昇進を差し止め、最後の征服戦争に本腰で乗り出した。

天正10年(1582)5月、信長は三男織田信孝を総大将に四国方面軍を編成、四国攻めを指示。
三好康長は先鋒として阿波の反長宗我部勢力を糾合。
5月29日には信孝軍は摂津住吉(大阪市住吉区)に着陣、摂津大坂、和泉岸和田に集結した総勢あわせ1万4000の侵攻軍は6月2日に四国へ向けて出航する予定だった。
しかし、当日朝に本能寺の変で信長が死亡したため、作戦は立ち消えた。

そこで本能寺事件の原因の一つは、明智光秀がこの四国侵攻を阻止するためではなかったか、という説明(桐野作人氏など)があらわれている。

私はこの四国説を《孫子兵法》の立場から全面的に支持賛同する。

その裏面には確かに軍師・官兵衛の光秀追い落としの悪意が仕込まれていた。
秀吉は信長とともに毛利を打ち破り、九州を平定して、京都に凱旋。
関白太政大臣の官位をいただき、ついに並ぶものなき天下人となる。

いっぽう「捨て石作戦」で、山陰道を進んだ光秀軍は出雲因幡の国境で毛利の最後の抵抗に遭遇、
敗戦したとたん、ただちに陣中で目付役から上意討ちの命が下り、
命乞いも許されず、斎藤利三ら重臣たちとともに首をはねられるのだ。

光秀は戦慄した。
「このまま官兵衛に殺られてたまるか」





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Last updated  Feb 18, 2015 09:58:20 PM


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