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毎年呼んでいただいている正福寺様(大阪・池田市/住職末本弘然師)でのご縁で、
愚生が帰属しております浄土真宗本願寺派西本願寺はもとより佛教界を代表する大学僧のお一人、
勧学 梯 實円和上と膝をあわせてのお話をさせていただく機会に恵まれました。
22年前に恩師の勧学 林 水月和上に築地本願寺(東京)で「問い」をぶつけて以来、
いまだに頭の襞、心の底にある自問自答をご法話をされる直前のもかかわらず
梯和上の法衣の袖をつかみ、「問い」をさせていただきました。
「詩に-愛-を書いてもよいか?」
基本的に佛教で言う-愛-は貪愛として苦悩の根源として取り扱われています。
もう22年も前に、果たしてそれで終わらせてよいものだろうか?いや、佛の慈悲として恋愛や
人間愛を超えたるものがらとしての-愛-を歌詩にしてもよいのではと決心して
佛教の僧侶でありながら-愛-を詩の中に入れることを始めました。
人が聞けばアホらしいことかもしれませんが、お釈迦様の教説を勝手都合で偽りを伝えることになるのだけは
極限までしたくなかったのです。現在も変りません。変れません。
ジョンレノンにもボブディランにも、他の音楽家にも素敵な愛(人間的)の歌がたくさんありますが、
その愛を超えた世界を表現せねばならぬのが、法衣着た者の道と肝に銘じているからです。
これまでに愛(人間的)の歌を書いたことは無いわけではありません。
ただ、佛の智慧と慈悲の働きは愚生の心の奥をえぐるのです。
『人間的な愛も祈りも末通らない絵空事』・・・・
このような質問を梯和上にさせていただいたのです。
そして、和上から「親鸞聖人は阿弥陀如来のご本願を愛ナリ、悦ナリとよろこばれておられます。
慈悲を慈愛と呼んでもよいでしょう。慈愛の愛も、貪愛の愛も字は同じですが、
慈悲の働きとしての愛を心に今後も作詩なさるとよいのではないでしょうか」と
お話をいただいたのです。
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北條不可思略歴プロファイル
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