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2010.12.07
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県議会はきょうから一般質問。一日3人が質問に立つ。2人目が終わり、今は休憩時間です。

日曜日に草加市長選挙の応援演説で、大声を出したせいか、少し声がかすれています。本来であれば他人の選挙ずらないのですが、県本部幹事長としての任務です。先週も決起大会に駆けつけました。演説が好評だったので、自分自身が励まされました。情勢や候補についての論評は、法律で禁じられているので、書けません。

応援演説の後、ひとかたならぬお世話になった、山口病院の山口現朗先生の告別式へ。とても大勢の弔問客だった。先生のお人柄が偲ばれた。山口先生については、いずれ稿を改めて書かせていただきます。お亡くなりになる1週間前に早朝、携帯電話で1時間お話できたのが、せめてもの救いでした。

このところ「ブログを読んでください」と呼びかけるkとが増えているのですが、肝心の更新ができないままで、申し訳ない思いでいっぱいです。

創価大学の思い出について、もっと詳しい話を教えてほしいとのご要望を受けましたので、過去のブログを転載します。

 

20080806

『潮』9月号

総合雑誌『潮』が9月号から「池田大作の軌跡」第2部の連載を開始した。一気に読み終えた。37年前、1期生として入学してから1ヵ月あまりたった5月9日の球技大会における創立者の写真も掲載されていた。当日、午前6時に起床し、晴天と無事故を御祈念し、大学の門に有志で整列し、大学構内に入っていく創立者の車をお迎えした時のことは鮮明に記憶している。入学式にも、お見えになれなかったから、お迎えできた朝は、お会いできなくとも、とてもうれしかった。球技大会の後、創立者と懇談した学生の代表に、懇談のもようを聞くため寮の食堂でお会いしたこと、そこでお聞きした創立者の話も覚えている。
あの頃の創立者の写真が何枚も掲載されていて、すべてがまばゆいばかりの輝きを放っている。

大熊教授のお話も書かれているが、創立者が大熊教授と一緒に出席された滝山祭の光景は、脳裏に焼き付いている。創立者が、血豆ができ、血豆が破れてもなお太鼓を叩き続けられたことも、忘れられない。その翌日の昼近くに滝山街道を浜野秀明さんや辻孝幸さんと歩いていた時に、創立者の車が僕たちの脇に近づいてくることに辻さんが気づき、足を止めて一礼したところ、創立者の車がすぐ先の交差点で赤信号で停車。その瞬間、原田稔氏が車窓を開けて手招きをしてくださり、駆け寄った僕たちに「創立者からです」とお小遣いをくださったこと、そしてそのことよりも何倍も鮮烈な印象として残っているのが、前夜に全精力を振り絞られたことが一目で分かる創立者のお姿だった。さまざまな思い出が次から次へと脳裏を駆け巡る連載だ。

連載のタイトルが「創友会とともに」<上>と題されたことに、とても深い意味合いを感じ身の引き締まる思いがした。

恥ずかしながら、新潟水俣病の研究展示を行った僕たちの教室を訪れてくださった創立者の写真も130ページに掲載されていた。以前、このブログに書いた文章を再掲します。


2007年10月19日
SGIグラフを手に感動
今朝11月号が届いた。最初に見つけたのは、妻だった。原点を思い出させていただいた。朝から緊張した。過去のブログに書いた文章を加筆修正の上、再掲します。
それから当時、僕たちがバイブルのように読んだ宇井純先生の『公害原論』。池田大作先生が宇井純先生と6時間にも及ぶ対談をなさっていたことが潮出版社の最新刊『池田大作の軌跡2』に記されている。水俣病についての章。
先週、読んだばかりのところへ、今朝のグラフだった。

私の原点となった第1回創大祭
2001年11月21日掲載原稿に一部加筆修正
<略>
「法と社会研究会」の代表5人で1台の中古車に乗って、八王子から新潟水俣病の現地調査に赴いたことも懐かしい思い出である。
昭和48年10月、36年前のことである。
創立半年の創価大学の知名度はゼロに等しかった。新潟水俣病訴訟の原告、弁護団の人たちから話を聞いて回るグループと、事件・公判の取材にあたった新潟日報記者、新潟大学の椿教授らを訪ねるグループの二手に分かれて行動した。新潟日報からは、展示に用いる写真を譲り受けた。
これに先立ち全員で『新潟水俣病』を著したルポライターの五十嵐氏から古町の喫茶店でお話を伺ったことも懐かしい。
訪ねた人で創価大学の名前を知っている人はいなかった。

関越自動車道の開通前であり、峠の手前で車にチェーンをはめた。なにしろ運転手は免許取り立ての同級生でヒヤヒヤものだった。
確か3泊したと思うが、バイトで貯めたお金を握りしめての新潟行きであり、宿泊は3泊とも1人200円のオールナイト映画館の座席だった。映画館は暖房が入っていたが、それでも冷気を押さえ切ることはできず、映画館を出る朝には、体は冷え切っていた。早朝から営業しているお店で食べたラーメンの温かったこと。

第1回創大祭の初日の朝まで展示の準備にあたった。
創立者は、すべての展示をていねいにご覧くださった。
僕たちの展示室は3階だったと記憶している。「今、階下のフロアーを回り終えられた」「もうすぐだ」「あ、隣の部屋に入られた」。初めて身近で接する池田先生。展示室入り口でお出迎えに立っていた僕は、体中がコチコチに固まっていた。一緒に立っていた創価学園出身の友が「自然体でいい」と励ましてくれたが、あまり効果はなかった。
そして、到着。創立者は、僕たちの顔を見るなり「お腹がすいただろう」とおっしゃり、「おいしいものでも食べなさい」とおっしゃった。当日までの直前の1週間はバイトもせず、即席ラーメン、食パンばかり食べていた。「どうしてお分かりになるのだろう」と不思議に思えてならなかった。
お小遣いの手配をしてくださりながら、展示室に入られた。歩く速さにに驚いた。

僕たちの展示室へ来られるまでの間、歩きっぱなし、立ちっぱなしで、激励し通しだったからであろうか。10分近くいてくださり、一息つかれる一コマもあった。といっても、創立者は立ちっぱなしだったし、僕たちに質問をなさったり、随分、多くの励ましの言葉をかけてくださった。

その間、何回もフラッシュがたかれた。
だから卒業後、36年になるが、第1回創大祭を振り返る企画には、これまで必ずといっていいほど僕たちの展示をご覧になる創立者の写真が用いられてきた。
不肖の弟子が、恥ずかしい限りである。

その日の夕方からの全体集会で、大学祭を成功させようとした努力は10年後、20年後に花を咲かせる、という趣旨のスピーチをお聞きし、漠然とだが、新聞記者になって社会的弱者のために働き、公正な社会づくりに貢献したいとの思いが芽生えた。卒業後、公明新聞に進むことになった、私の原点である。

その夜は、皆で八王子駅前まで繰り出し、とんかつを食べ、喫茶店に行き、頂戴したお小遣いを使い果たした。
全員が、話しても、話しても、それぞれの感動の思いを言葉では表現し尽くすことができなかった。生命に刻まれた金の思い出である。

二人の子どもが在学中は、創大祭の前夜に差し入れの食料を買い求め、届けに行った。幸福感を味わいながらハンドルを握り、圏央道を飛ばした。
今年の創大祭は、行けないかなと思っていたが、ふとした縁で、初日の深夜に、病と闘う後輩を激励するために深夜、八王子へ走ることができた。

 






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最終更新日  2010.12.07 14:35:20
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