『愛の流刑地』
性欲は食欲や、そのほかのいろんな欲望とおなじく、人が種として保存されて、その遺伝子を生き残らさせていくために、神様から与えられたもの。子供を生むためのもの。であるとは、思う。人間以外の普通の動物はだいたいは、そのためにしか使っていないと、思う。 けれど、人間だけが、子供を生むということのため以上の、つきない欲望を満たしたいと、願ってしまう。 それは、他の動物にはない、知性ゆえなのか。動物以上の感情ゆえなのだろうか。 性の欲望にしたがって、子供を生むことは正しくても、それを逸脱して、出産や、子育てからぬけだして、ただ、体の望むままに性の喜びに浸ろうとすることが、あるいは、罪になってしまうのは、なんとも、不条理な話なのかもしれない。 心のときめく恋から、体の芯まで振るわせる性の快楽が、けれど、妊娠と子供の出産と子育てと、その先の長い日常にと変化してしまうことに、戸惑いを感じる人はどのくらいいるのだろうか。 子を持つ母が、本来の子育てや、母性を捨てて、恋に走ってしまうことを、普通に子育てする主婦であれば、「不道徳でありえないひどいこと」と、思うかもしれない。「人間としておわってる」とかね。 けれど、私はちょっとうらやましかった。子供より、愛と性に埋没して、快楽を享受することに埋没していくヒロインが。 それが罪になってしまうことが、人の住む社会の不可思議な矛盾であることも。 でもね。性の快楽のためだけに死ぬのはちょっと私は、もったいないからいや。だって、この世にはそのほかにも、いろんな楽しいことがあるじゃない。できれば、私は、もっともっと、漫画を読んだり、ゲームをしたり、本を読んだり、勉強したり、映画みたり、旅行に行ったり、おいしいもの食べたり。やりたいこと楽しいことがいっぱいあるのに、セックスのためだけに人生をおしまいにするのは嫌だなぁ。もったいないもん。 ということは、性の究極のエクスタシーというのは、子供や家庭がどうでもよくなるというよりも、この世の全ての快楽を凌駕するほどの快感なんでしょうか。 つまりは、家庭や子供をすてて性欲にはまるということではなく、それ以外の全ての娯楽以上のものなのでしょうか。 「そんなエクスタシーを感じることの出来る女はめったにいないのよ」と、映画の中でも、語られるシーンがあるのだけれど。 で、もちろん、そんなところまで経験するなんてめったにないので、それ以外の娯楽の方が楽しいと、まだまだ思うわけですが。 でも、そんな風に究極のエクスタシーに出あっても、体はどんどん老いて感受性は劣化していくわけですから、できれば、人間の経験しうる最高の快楽を知って、そして、その記憶が薄れないうちに、絶命したいと、そういうお話なんですよね。 もちろん、エクスタシーのためにはその相手には、惚れている相手の方がいいわけです。だから、このお話は、死んでもいいと思うほどの恋愛なんて話じゃなくて、記憶を薄れさせるくらいならその前に死んだ方がいいと思うほどの快感を経験した人間の話なんだと、思います。 セックスと、漫画と、映画と、読書と、ゲームと、サッカーと、野球と、その他もろもろ。何を一番快感と感じるかは、もちろん人によりけりです。でも、これは、渡辺淳一だからね。 ラストにヒロインの手紙が出てきます。「天に昇った女はもう地上にはもどれないのです。」 それでこれは、天女の羽衣の現代版ストーリーだったのだなと、思いました。天上には、地上のどんな娯楽よりも、子供や家庭よりも、ずっとずっとすばらしいものがあるのでしょうか。主人公の菊治は、天女の夫から羽衣を盗み出して、天女に渡してしまった。その罪を問われている。そういう物語なのかもしれません。 愛の流刑地@映画生活