昔の資料
先日、PTA主催の大きな行事がありました。同じ市内のいくつかの高校が集まっての交流会、今年はうちの高校がもてなしをするホスト校だったので、役員にとってはプレッシャーの大きい行事です。ホスト校は交流会の進行をしながら昼食も用意しなければならない、大変な1日となります。順番がまわってくるのは数年に1度なので体験した役員はみな卒業しています。昔の役員の人に来てもらって話しも聞きましたが、準備段階で何より役に立ったのは当日のタイムスケジュールやら人の動き、買った物や値段まで細かく書かれた昔の資料です。それをもとに役員が進行係とまかない(昼食準備)に分かれ準備を進めてきました。私は進行係だったので当日は他の学校から来た人の案内や司会をしたりと大忙しでした。今月の星占いで「数年に1度の幸運期で、みんなの注目を集めます」なんて書いてありましたが、確かに交流会の司会などすればいやでも大勢の人に注目されます。あんまりうれしくありませんが(笑)でも無事終わってほっとし、あらためて記録を残すことの大切さを考えました。PTAの記録なら数年前と消費税が違うくらいでほとんどそのまま使えるし、話し合いとかはそれぞれの考えの違いから意見が対立したり批判されたりするけど、記録に基づいてスケジュール表を作っている限り対立することはなく、淡々と仕事が進められました。でもこれはPTA行事の記録で、当日どのように動いたとか何をどれくらい買ったというあくまでも事実なのでそのまま指針にして役立てることができたのであって、聖書などの宗教にかかわる重大な資料はそれをみんなで読んで役立てるというわけにはいかない、長い年月の間には使う言葉や社会の状況もすっかり変わってしまいます。読み手が変われば違う解釈も生まれるのだけど、聖書のような書物の場合は勝手な解釈は許さない、そのために数多くの争いや悲劇が起こりました。数年前の資料ならそばに書いた人がいなくてもそのまま読んで利用することができるけど、数百年、数千年と間が開くほどそのまま読んで内容が理解できるわけでもなく、わかりやすくするための解釈が必要でそこから争いが起きる、伝えることの難しさを感じました。