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kurara to kuri クララ9061さん
2006.07.25
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 前回お話したように、日光東照宮の眠り猫が左甚五郎作ということになったのは記録から確認される限りでは明治時代以降ということになります。実際にはもう少し遡る可能性もありますが、仮に、
 「日光東照宮の眠り猫は明治時代に左甚五郎作となった」
 とお考えいただきたいと思います。

 さて、それではなぜ突然、眠り猫が左甚五郎の作となったのでしょうか?

 かの眠り猫は、彫り物としてさして優れたものにはみえないという点もすでに述べた通りです。彫刻の出来のよさゆえに左甚五郎の作とされたとは考えづらい。
 実は、左甚五郎作という説をもつ彫刻は、写実性の善し悪しとは無関係に、個性的な出来栄え(悪く言えばイビツな)、あるいは意味あり気な珍しいモチーフを持ったものが多い。

■猫の彫物は珍しい
 猫の彫り物が珍しいものであるというのは、確かに言えるようです。私が把握している限りで、江戸時代の建築装飾彫刻で猫をモチーフとしたものは十数点のみ。猫という動物のポピュラーさに比して数は少ないようです。

 数が少ない理由は、寺社建築の装飾として使用されるモチーフは、
  ・獅子・象・獏・麒麟などの吉祥をあらわす霊獣
  ・火除けの意味合いをもって使用された亀・鯉・「波に兎」、
  ・方角にしたがって建物の四方に配されることがあった十二支
 などが繰り返し使用されてきたのに対して、それ以外の動物はモチーフとして取り上げられることがまれでした。

 また、猫は妖獣として寺社で嫌われる場合があったことも確かで、奈良県の海竜王寺に伝わる鎌倉時代の「海竜王寺定書案」(貞永元年/1232)には、
  一、不可長養禁籠鳥類并猫・牛畜事、
   右、猫者好殺生、牛者似在家、不可蓄養、唐鋤・馬鍬、不可置之、
 とあって、「猫は殺生を好むので飼育することを禁止する」という内容の規律が存在したことが知られます。高野山でも猫を飼うことが禁止されていたようで、『紀伊続風土記』高野山之部には、
    猫
  『行事鈔』云、律中比丘畜猫*子狗子乃至衆鳥并不得畜、蓋據此制意可知也、『戒疏』云、以有殺生咎禁猫*子取意。『蘇婆呼童子經』中云、勿畜猫狸〓[羯ノ扁+殳]羊乃至如是之人今世後世念誦眞言亦不成就、此等の制意あれは顯密の規矩を守て當山[高野山]に殊に禁遏[キンアツ、遏:さえぎる、とどめる]すとそ、
 とあり[句点、『』は私に補った]、『行事鈔』・『戒疏』・『蘇婆呼童子經』などの仏書にしたがって、猫を忌み嫌っていたことが知られます。
 江戸時代の国語辞書『諺苑』(ゲンヱン、太田全斎著、1797年成立)にも、
   猫一匹殺すは七堂伽藍を建てるより功徳がある
 という俗説があったことが書かれており、猫が寺社と折り合いの悪い動物であったことは庶民も知っていたらしい。

 以上をふまえると、猫が十数件みとめられるというのは、実は、よく健闘しているとさえ思われるのです。
 とはいえ、猫の彫物はけっして多くはなかった。

 そして、寺社の装飾に猫をモチーフとすることに江戸時代の人々が疑問をもつ素地も存在した。
 要するに、
  「猫の彫物があるのには何か意味があるに違いない」
 と人々が自然に考える素地が存在していたといえます。

■四天王寺の「猫の門の猫」
 そのような状況の中で、江戸時代において、もっとも著名な猫の彫物は、日光東照宮のものではなく、実は大坂・四天王寺のものでした。

 四天王寺境内の南東に聖霊院(しょうりょういん)という一画があり、聖徳太子をまつったお堂(太子堂)があります。その北門は「猫の門」と呼ばれ、猫の彫物がほどこされていました。「猫の門」は元和年間(1615~24)ころに建てられたものと考えられるので、日光東照宮よりも古い。そして、なによりもこの彫物は、とても有名だったようなのです。どのように有名であったかというと、
   元日の朝に3回鳴く
 という伝説があることで有名でした。このことは『京都大坂巡見記』(1767~68)にみえます。「巡見」というのは、幕府の役人が主要な寺院や神社がちゃんと維持されているかどうかを確認してまわることで、明和4年(1767)に行われた巡見の記録に上の説がみえます。さらにこの記録はこの「猫」を左甚五郎の作として伝えているのです。

 四天王寺の猫が左甚五郎の作といわれるようになった時期は、日光東照宮のものよりもずっと早いのです。この彫刻が左甚五郎の作と伝わることの真偽は不明ですが、「元日の朝に3回鳴く」という不思議な伝説があったことと無関係では無いでしょう。生き物のように鳴く不思議な彫刻を作れるのは名工に違いない、ということから左甚五郎の作ということになったと考えるのが自然でしょうか。

 この「猫の門の猫」はいつの頃からか、四天王寺の七不思議の一つに数えられるようになりました。

 また明治頃には「猫の門の猫」と称される土産物が天王寺門前で売られていました[『うなゐの友』第二編、明治35年刊]。木村喜久弥『ねこ』に写真が載せられた「大阪猫門猫」というのがこれで、同書には、この猫を可愛がると、
  (1)寝ていてよい果報がある。 (2)ネコは蔭を食う獣だから、家が陽気になる。
  (3)愛嬌を増す。 (4)待ちびとがくる。 (5)ネズミが減る。
 などいろいろ霊験があるといわれる、と記されています。

 なお「猫の門の猫」は門とともに第二次世界大戦中に焼失してしまい現存していません。

■四天王寺の話が日光へ飛び火
 猫という「珍しい」モチーフをあつかった彫刻が、大坂と日光に存在していたわけです(もちろん他の場所にもいくつかあります)。そして日光の方は、もともとあまり有名ではなく、左甚五郎作という伝承もなかった。一方、大阪の方は早くから有名で、左甚五郎作という伝承があった。
 明治時代になって日光東照宮のものが急に左甚五郎作として説明されるようになったのは、単に大坂の話が、日光へ飛び火しただけ、と思われるのです。どちらもともに「珍しい」猫というをモチーフとしていたという理由だけで。





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最終更新日  2006.07.31 03:41:21
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