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kurara to kuri クララ9061さん
2006.07.24
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■眠り猫の知名度

一方で眠り猫の知名度は、というと…。

現在では修学旅行やバスツアーでは日光の欠かせないスポットになっているようです。
「左甚五郎が作ったと伝わる…」などとの解説が一日中繰り返されています。

しかし江戸時代の半ばまではほとんど注目をあつめていなかったようです。

文化11年(1814)成立の随筆『耳袋』には、日光東照宮を管理していたものが、
 「日光にはあらゆる鳥獣の彫刻があるが、猫だけは妖獣なのでない」
と言っていたが、巡検した結果。猫の彫刻があり、かれの話は妄言だった、
という話がでています。

この話からは、眠り猫があまり有名でなかった様子がうかがわれます。

その後の書物には、
文政9年(1827)『日光巡拝図誌』
 「猫の彫物有所に御門有、」
文久2年(1862)『日光山旅日記』
 「眠の猫あり、高彫彩色にて恰も生たるが如し、」
などのように、眠り猫の記録がみえます。

旅行案内として利用されたであろう、これらの書物に眠り猫の存在が記されたということは、これらを頼りに日光を訪れた人々の多くが、眠り猫を意識的にみることにつながったことでしょう。

要するに、江戸時代の末頃には、

左甚五郎は落語の登場人物として「有名」

眠り猫は「有名」とまではいかないが、随筆や旅案内に記されたことで注目されるようにはなっていた

という状況だったらしいのです。

ただし、このころ眠り猫と左甚五郎との関連づけは史料からは認められません。

■眠り猫が左甚五郎作となる

明治時代になると、眠り猫と左甚五郎とを結びつけた記録が確認されるようになります。

明治15年の『日光名所図会』には、眠り猫は、
「肥田の甚五郎の彫物」として登場します。
「肥田の甚五郎」は左甚五郎とは別の人物のこととも思われます。

しかし、明治20年の『日光山道しるべ』には、「睡猫の彫物は俗に左甚五郎の作と称して人々珎重す」とあります。
このころには既に、俗説としてではありますが眠り猫は左甚五郎の作った物として説明がされるようになっていたようです。

想像にすぎませんが、当時のガイドが、
日光へやってきた旅行者に眠り猫の説明をする際に、
より有り難みがあるようなものとするために
左甚五郎の名を借りることがあり、
それが定着してしまったのではないかと…。

ただ、眠り猫と左甚五郎を結びつけたのには、
それなりの根拠があったと考えられるのです。





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最終更新日  2006.07.24 04:40:56
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