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2016.09.19
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カテゴリ:カテゴリ未分類
敬老の日なんて、自分のことではなく親達のものだ
と思っていた。

そう言えば、これまで10才の孫から、「敬老の日だね」
と言われたことはない。

孫は、私達のことを、「おじいちゃん、おばあちゃん」
ではなく、「ムッシュ、ちーさん」と呼ぶ。
だから、孫は、私達のことを老人だと思ってないのかも
しれない。
それに、自分達にも、その自覚はかなり薄い!

あまり、気にしたことはなかったが、気がついて
みれば、何とも不思議な気分ではある。


先程、Wordの整理をしていたら、友人の作家であり、
ミュージカルの脚本家でもあるヒロコ・ムトーさんの
出版本に書いた感想文の下書きが出て来た。

数年前、彼女がお母さまのことを書かれた本が出版された
のだが、その感想を聞かせて欲しいと言われ、おこがまし
くも、つらつら書いたものだが、彼女に断らずに申し訳
ないが、敬老の日なので、原文のまま載せてみようと
思った。

少々長いので、途中で休んで戴いても構いません‼
悪しからずお赦しを……



☆彡ヒロコさま
 

拝読させて戴きました。
 
何ということでしょう!ビックリしました。
驚きました。((((;゜Д゜))))

ヒロコさんのご本のラストと、私の本のラストが同じだ
なんて…。

涙が出ちゃいました。嬉しくて…。

人生最後に言いたいことが…。

ああ、間違ってなかったんだ。
これで良かったんだ…って。

(勿論、著述のプロのヒロコさんの文章力と同じという
意味ではありません。足元にも及びませんが、考え方、
感じ方、思い方が同じ…という意味で) 

ヒロコさんと私の人生は全く違っているのに、紆余曲折、
艱難辛苦、山あり谷あり、大波小波、全く違うのに、
それぞれがそれぞれの道のりを引き受けながら、何かに
手繰り寄せられたように同じことを感じていた…。

偶然ではない必然…そんな気がしました。

 

ヒロコさんのお母さまと、私の母の生き方も全く違い
ますし、どちらかというと、私の母の晩年は、「痛い…」
「痒い…」「暑い…」「寒い…」「苦しい…」「辛い…」
と、あらゆる言葉を使って自分の存在を私に訴え、私の
気を引く赤ん坊のような晩年でしたので、ヒロコさん
とは親に対しての受け止め方も全く違うのに……。
不思議でした。

要は、人間としての基本というか、基礎というか、
根底にあるものは、人間である以上変わらないという
こと……勝手ながら、そう思いました。

 

それにしても、ヒロコさんのお母さまは、何て何て
素晴らしい方なのでしょうか。

ご病気のデパート、総合商社……そんなふに言われる
中にあっても、最後まで希望とやる気を失わずただ
前だけを見つめていられる。

あの強さはどこでどう培われて来られたものなので
しょうか。

ご主人に逆らうこともなく、ご自分を主張することも
なく、ただひたすら妻であり、母であり、嫁であった
だけの方が、なぜ…という気がしてならないのです。

私の母たちの親、つまり、祖父母の代では、殆どが
60才代で人生を終えるのが普通でしたし、70才代
では、「あら、長生きねえ」と言われ、81才で
旅立った私の祖母に至っては、「大往生!」と言われた
時代でした。

ところが、医学も発達し、女性の平均寿命が85才に
至ると、母たちは戸惑いました。
どう生きていいのかがわからない……。

自分の親たちは60才代で世を去り、自分の前に85才
の生き方の見本や手本がないのです!

「70才の時、母はこんなことをしていたっけ。80才
の時は、あんなことやってたっけ。90才の時は、
こんな生き方をしてたっけ…」

その見本手本がないのです。

戦後60年以上も経つのに、趣味や習い事を持つのは
贅沢と教えられて来た世代です。今更何も出来ず……。

介護しなければならない親もなく、孫は大きくなって
手をかける必要もない!
体は丈夫なのに、やることがない!
周りの人間も、どうやって生きがいを見つけてあげて
良いのかわからない!

つまり、妻として、母として、嫁としての与えられた
務めを終えると、自発的に何かをやって来なかった……
というより、やらせてもらえなかった女性(母)たち
は集団でオロオロしだしました。
個人を埋没させられて生きることを強いられて来た
女性たちは、集団でいないと不安になった。

病気でもないのに病院の待合室に集まり出しました。

そして、「痛い」の「痒い」のと言っては貼り薬や
痒み止め、ビタミン剤などを山ほど貰い、持ち寄った
お菓子を出して食べ始める。

「ちょっと、今日は田中さん来ないけどどうしたの
かしら……」

「どっか具合でも悪くて寝てるんじゃないの?」

「早く元気になって病院に来れるといいわねえ……」

病院側も、サロン的になっていることを善しとして
黙認している。いえ、その場を提供さえしている。

また、ある人は、いい部屋を与えられ大事にされて、
転ぶと危ないから…と、家から外には出して貰えず、
一日中テレビと向かい合い、言葉を発することもなく、
時としては、食事まで運ばれ、一方通行の世界に
置かれて絵に書いたような幸せという誤解の中で
生かされる。

みすみす可能性のある人生を、あたら埋没させられて
いく。

そんな人生や生き方を背負わされた人の多い中にあって、
お母さまを駆り立てたものは何だったのでしょうか。

私の母も、昔は進歩的な人でした。教師を辞めた後、
PTA活動や、婦人会活動に熱心で、いつも長という
役職を持っていたために留守がちで、祖母も仕事を
持っていましたので家にいず、台所の役目は私でした。

私たちも成長し、それぞれ進学のため東京や仙台に
出ると、元気だった祖母が亡くなったこともあり
(亡くなる迄の半年間は母が介護した)、45才の母は、
今度は、小料理屋を始めました。
板前さんと中居さんもいて、二階のお座敷も、いつも
予約でいっぱいの繁盛していた店でした。 

小さな田舎町のこと、「教育に従事していた女性が、
水商売を始めるなんて…」と口さがない連中はそう
批判をしました。

島国日本の縮図でもあった町や村という単位は、
他の人と違うことをやろうとすると、どこの町や村でも
残念ながら、足の引っ張り合い、潰し合いが始まります。
それでも潰れない人間だけを受け入れる……。
母は潰れませんでした。

批判していた人たちをも上手に受け入れ、最後は、
お店の常連さんにしてしまいました。

そしてお店も人に譲り、70才になって、ソシアル
ダンスを習い、メタルテストも受けて2級合格し、
大正琴も習い、名取になり、このまま人生最後まで
走り続けるのだろうと誰もが思っておりました。

ところが、何と、父が脳梗塞で倒れた途端、母も
ダメになってしまったのです。

思いもかけないことでした。
そのことに、一番戸惑ったのは母でした。

……体の弱い私が倒れることはあっても、あの丈夫な
夫が倒れるはずがない。……

戸惑っている母に、今度は私たちが戸惑いました。

 
長い間、患っていた母の糖尿病が、そのショックと
ストレスから急に悪化、「糖尿病による脳梗塞における
意欲障害」という病名を貰ってしまいました。

進歩的な女性を好み、そういう女性に仕立て上げた父が
倒れた途端、何も出来ない人間になってしまったのです。

板前が急病で休んだ時など、板前よりも上手に料理し
工夫していた女将が、料理を何一つ作れなくなり、
洗濯はおろか、一人でお風呂にはいることも、留守番
すらも出来ない人間になった母を、私が引き受けること
になりました。
寝たきりの父は妹が引き受けてくれました。

それからの11年、大きな赤子を抱えたような私は、
ムッシュや、私の母と同い年の74才の義母、娘たちに
迷惑をかけたくなかったので、母と二人、近くの私の
マンションに越しました。

私の一挙手一投足を、すがるような目で追いかける母、
買い物に出ても15分もしないうちに電話がかかり、
「まだ帰らないの?」「あとどの位で帰るの?」と。

昔、私の実家にいたお手伝いさんに来てもらい、
お風呂に入れてもらったり、私の仕事の時は留守番に
来てもらったり、それでも私の携帯のベルは鳴り
続けました。

山ほどの薬袋を肌身離さず家の中を持ち歩き、何か
あれば不安になってすぐ薬をのむ。飲む必要のない薬
まで飲むので足りなくなる。なくなると病院に電話を
して、歩けないからといって届けてもらう。

これはまずい!薬を絶たせなければと、薬袋を取り
上げても、どこかに隠しもっている知恵はある。
言うに言えない、話すに話せない凄絶なバトルと
闘いの日々!

全くの赤ちゃん返りの母は、私にとって、誰よりも
何よりも重たい存在でした。

何をどうやってあげても、毎日の全てが不満足。
出て来るのは不平と不満と不足!

もし、私が先に逝くようであれば、残していけないと
思いました。

ムッシュはおろか、30才前の、それも嫁入り前の
娘たちに託すことなど出来る訳がない。

いっそ二人で死のうかと何度も思いました。

正直言って、ソファに座っている母の後ろで肩揉みを
している最中に、首に手をかけようか……という衝動に
何度かられたことでしょう。

にこやかな父の顔が浮かびました。
娘の将来が浮かびました。
その度に思いとどまりました。

「明日」という字を、「明るい日」なんて、間違っても
書けない日々…。

片や、講演の依頼で、命の尊さを説いて回る日々。
自分の中の嘘が赦せませんでした。

こんな自己矛盾の中では、もう語れない…もう講演活動
はやめよう…と思いました。

それを救ってくれたのが、雑誌の連載でした。

そして、言わなくても私の苦痛をわかっていた
ムッシュが背中を押してくれました。

そんな中で書いたエッセイ集が、今回、一冊に
まとまりました。

勿論、こんな重たいことは書いておりません。
(重いのは体だけで充分!(笑))

母が旅立って考えました。

なぜ、父が倒れた時、母もダメになったのか…と。

ある時、母がつぶやいていた言葉を思い出しました。

「私ねえ、お父さんを牛耳っているつもりになって
いたけれど、私は、お父さんのタナゴコロの上で、
コロコロ転がされていたんだわねえ。ある日、
お父さんの川柳の会報に、私の事が投稿されていたの。
≪天ぷらや 泳がせておき 揚げ加減≫…だって」

つまり、私の母は、ヒロコさんのお母さまと違って、
日本人の女性特有の依存型の人間でした。

一見、何事も自発的にやっているような進歩的女性に
見えていたけれど、本当は、夫に依存し、夫の喜ぶ顔を
見たいという、男にとっては可愛い女だったのかも知れ
ない。

甘え方が上手だったし、何となく周りが動いてくれる
ように仕向けるのが上手だったし…。

父にとっては、ちょっと気は強いけど可愛い女だった
のだろうと、今、思います。

私は、子供の頃から何でも自分で決め、小学生の私が
お夕飯のおかずとお弁当の中味まで決めて買い物して
きたり、家の中のことは殆ど私が仕切り、そういう環境
と習慣が身に付き、全て自分で決断し、行動し、誰にも
頼ることを知らずに生きて来た……。
そういう意味では、可愛気のない子供であり、可愛く
ない女だとは思います。

でも、そんな母を見て、やっぱり自発的に生きよう、
自主的に生きよう、これで良かったんだ。最後まで
心身共に元気で生きて行こう。誰のためにも…
という思いを強くしました。 

ヒロコさんのように感性豊かな可愛い女を目指して、
そして、何があっても希望と夢を失わない
お母さまのように颯爽と、そして、パパさんのように
強く逞しく生きて、「明日」という字を思いっきり
「明るい日」と書けるよう前に進みたいと思いました。

そして、終わりに、
「私の人生、まんざらでもなかったよ。幸せだったよ」
と言いながら去りたいと思います。

一昨日、亡くなられた俳優の杉浦直樹さんが、ご家族に
言い残された言葉が、
「私の人生、いい人生だったよ。皆さんに、ありがとう
と言ってくれ…」
とのこと。お見事です!私も、そうありたい!

全く感想文には程遠い長い文章になってしまいましたが、
一応、思ったことを失礼も顧みずに、つらつらと書き
綴ってみました。

読み返すとあっちこっちいじりたくなりますので読み
返しません。失礼あればお赦しくださいね。

まずはお元気で…

ありがとうございました。感謝!

                はぎうだ ちづこ 

 (※4年位前の物です)







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最終更新日  2016.09.28 19:00:58



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