カテゴリ:日々の暮らし
実家に帰ったとき姉と二人で納戸や押入れを整理した。田舎の家は古くて広いので昔からの物がそのまま開けることもなく残っている。
母は物を捨てられなくて・・・・それぞれに思い出の品なのだろう。桐の箱に入った壷や茶器や皿や、もう使うこともない品々。昔の着物や服は捨てていい?と聞いても残しておきたいと言う。私も思い出のある品々は残しておきたいと思っていた。でも最近は捨てるようにしている。過去に浸るよりこれから先を生きたいと思うようになったから。それに過去は神さまが知っていてくださるのだからと。でも母にとっては大事な品々なのだ。大切にしまっておくことにした。 色あせた柳ごおりを開けると底に古い新聞が敷いてあった。平成元年5月9日。そのなかに遠藤周作さんの「自分と出会う」という記事が載っていた。もう20年も前の記事だから引用してもいいかな? 「ミステリー小説では最後の頁あたりで真犯人がわかる。もし、これが最初の部分で読者に察知されるなら、誰だって読むのがつまらなくなるだろう。人生だって同じだと思う。人生の本当の意味が若い時代に既にわかっておれば、私など生きていても面白くない。わからないからこそ、本も読むし、小説も書く気になったのである。自分とは何か。これも同様だ。本当の自分とは何かーーーー私はいまだによく掴めていない。誰でもそうだろうが、私も自分のなかに矛盾した色々な面を感じる。様々な音が聞こえてくる。チャンネルは自分のなかで、ひとつだけではない。複合的で重層的な自分を一言では表現できない。だからまた小説を書きつつげる気持ちになっている。 (小説「沈黙」を書くようになった部分は省略します) 後になってこの踏絵を材料にして「沈黙」という小説を書いた。そのなかで卑怯者にして弱虫ゆえに踏絵を踏み、それなのに神を捨てきれぬ男をどうしても登場させざるをえなかった。その人物の名はキチジローという。フローベルは「マダム・ボバリーは私だ」と言ったそうだが、私もそれにならって「キチジローは私だ」と思いながら筆を進めた。小説家という者は小説を書きながら、そのたびに自分と出会う筈だ。自分と出会わない小説を書く筈がない。」 この記事が書かれたとき遠藤さんは66歳。「本当の自分とは何か・・・私はいまだによく掴めていない」 ああ、ほっとするよ。なんだか、自分がわからないだとか神さまがわからないなどと教会の人には言えない。迷いや悩みはクリスチャンらしく正しく迷い正しく悩まなければならないから。 ああ、ちょっと違うかな・・・・。井上神父さまの本に「宗教とは全身をあげて生きることにある」と書かれていた。迷い悩みそれでも全身をあげて生きることなのだ。わたしは全身をあげて生きているか? Kちゃんは治療に入っていなかった。土壇場になって外科の先生と放射線科の先生の見解が違っているのが分った。二人は疲れています。重荷を負っています。神さま具体的にどのように休ませてくださるのですか?Kちゃんと息子を休ませてください。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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