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今日も、私の属するアメリカの教会のメッセージを オンラインで見ていました。 今、新約聖書のヤコブの手紙を学んでいるのですが、 今までぼんやりとわかっていたことが、 なるほどぉ~~~!!と 目が開かれたので この恵みを皆様ともシェアさせていただきたいと思います。 まず、行いについてです。 宗教ってものには、行いがついてきます。 あれをすれば、これをしなければ、と。 そして、救いを得るために行いをする。 しかし、聖書は全く違うことを教えています。 行いでは、救われないというのが前提です。 イエス・キリストを信じる信仰によってのみ救われます。 キリストの何を信じるの?こちらをチェック あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。 新約聖書 エペソ人への手紙 2:8-9 よって、私たちは、 行いではなく、信仰によって、救われます。 これは、聖書の教える不動の救いの原則です。 しかしです。 ヤコブの手紙にはこう書いてあります。 たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。 新約聖書 ヤコブの手紙 2:26 キリストを信じてる!と口で言っても、 その人に行いがともなっていなければ、 その信仰は死んでいる!というなんとまぁ 恐ろしいことをヤコブは教えています。 行い。。。 良い行いをする人は、日本にたくさんいますよね。 行いがあれば、信仰があるのかというと、そうでもない。 でも、本物の救いに至る信仰を持つ者は、必ず、行いがあります。もしなければ、その人の信仰は死んでいると、ヤコブは言っているわけですよね。「救いに至る信仰」と、「救いに至っていない信仰がある」と。そして、救いに至る本物の信仰を持つ人、持たない人の差、というか「証拠」は、「行い」である、行いにあらわれると、ヤコブは教えています。 人は、信仰によって救われます。よって、ここでは、ヤコブは、救われた「後」のことを話しています。救われた結果、本当にキリストにあって救われた人は、こういう生き方をするよ、という教えです。 キリストも、こう確かに教えていました。 わたしに向かって、『主よ。主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者がはいるのです。 新約聖書 マタイの福音書 7:21 ここだけではありません。行いによって、天国に入るか、地獄に行くかが分けられると何度もキリストは教えています。(例:マタイ25:31-46)腑に落ちませんでした。今の今まで。 でも、なるほどと、神様が目を開いてくださいました 私だけが感動しているかもしれませんが、気にせず書き続けます 牧師先生が、今まで単純だけど、考えたこともないことを言われました。 イエス・キリストは、聖書の中で一度さえも、「私はあなたを愛している。」と言っていない、と。 これ、ちょっと驚きではないですか?私は「ほんまや!!」とかなり驚きました。 たしかに、たしかに、「私はあなたを愛している」と、キリストは口では言っていません。 キリストは、もちろん人々を愛していました。もちろんです。オフ・コースです。 しかし!!!!!! その愛を、口先、リップサービスでは示さなかったのです。 行いで、態度で、彼の愛を人々に示されたのです!!! わぉ~~~ よって、キリストの霊が内に宿る者は、 もちろん、キリストのように生きるであろうということです。 キリストは、口先で「愛してるよ」「祈ってるよ」 と愛そうとせず、時間を共に過ごしたり、 自分を捧げることによって、助けることによって、 力になることによって、行動によって、愛を示されたのです。 その究極の愛は、十字架上で私たちの罪を背負い、 私たちの身代わりとなって死んでくださった!!! ということです。 十字架も愛を「行動で」示してくださったのです。 だからなんだ!と本当に目が開かれました。 キリストがそうだから、 私たちも、そう生きる。 なるほど。。。 御父が御子を見て喜ばれたのは、 キリストが御父の御心を行ったからです。 私たちも、御心を行って生きれば、 神に喜ばれます。 それは、自分を誇るためではなく、 神様の愛が心にあるからです(ローマ5:5) このことを、もっとじっくり 今夜は考えたいと思います。 わ~い 子どもたちよ。 私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、 行ないと真実をもって愛そうではありませんか。 新約聖書 ヨハネの手紙 第一 3:18 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.08.29 23:55:31
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