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カテゴリ:心の動き (My Mind)
近代日本文学・現代日本文学
〔講義形式〕講義・グループ討議(ゼミ)・全体討議・各グループ、レジメ作成・全体発表 文学にしかできない事(なぜ文学を学ぶか?) 高見の分析ではなく、色々な感性の繋がりの中に居ないと、色々な関係性や自己を発見できた とはいえない。それができ、心に寄り添って考えさせてくれるのは、文学しかない。 ~知識は、共同体から還元し学ばないと意味がない。ただ共同体から離れたところで得た知識を 披露しても、本質は語れず、捉えられたとは言えない。 ~【太宰治『竹青』「学問も結構ですが、やたらに脱俗を衒うのは卑怯です。もっとむきに なって、この俗世間を愛惜し、愁殺し、一生そこに没頭してみてください。」】 現代における「恋愛(他者に面した自己発見)の不可能性」とその「闇」を破りうる曙光の在り処を探る。 私達の生きる現代の「闇」 *社会的機能で組み分けられ、その機能だけをこなす人々が多い。その機能・役割を上手に 熟す人が優秀とされる世の中。心がなくても生きていける。 *自分の手元の紙切れや金属片を貨幣として受け入れてくれさえすれば、その人間がどの様な 人間であってもかまわない資本主義な世の中。顔・心が見えない現代。人間と人間が 「手段」としての関係でしかない資本主義の闇がある。 *利用可能かどうかの存在で、自分が動かされたり、他人を動かしたりしている。 *欲望を極めず、大事にしない現代。その時々の浅く、複数の欲求を追及し、どれも あきらめない。そうやって、軽く合わして色々な自分を作る浅い個々がひしめいている。 その反射的な欲求を満たすことが優先されているのが今の社会。 *自分の思いが、莫大な情報にすでに載せられているため、とても有り触れた自分に なってしまっている現代。 *「世界」や「自己」を問うことがなく、人間的に確立できない現代。理屈や論理で 表せられない不思議に満ちたファンタジー世界となっている。テーマパークの様な世界。 *自分の世界で安住して、他人の空間には侵入しない、関心がない。しかし、自分が他人に そんなに関心がないのに、急に自分に関心が得られない孤独を感じる現代。 *目の前の日常を大切にする感覚がおかしくなっている現代。 現代の「闇」を破りうる曙光を含む一論〈貨幣論〉 スティブンスン『瓶の妖鬼』 子鬼が住む小瓶は、持ち主の願う事は永遠の命以外なら何でも叶えてくれる。しかし、それを持ったまま死ぬと、持ち主の魂は地獄に引きずり落とされてしまう。初め、百万ドルで買われた小瓶は、人から人へと売り渡された数百年の間に2ドルまで下がってしまう。その時、ケアウェという男がコクアという娘に恋をする。しかし、彼は不治の伝染病に冒されているのを知る。病を移さずにコクアとの愛を貫く道はただ一つ。小瓶を泣く泣く1ドルで買う。地獄に堕ちる決心をしたのです。ケアウェの住むハワイでは1ドル以下の硬貨はありません。小瓶は死ぬまで誰にも売り渡せないのです。・・・・・ 『瓶の妖鬼』を読む 東大教授 岩井克人 朝日新聞2002.2.6夕刊 ・・・人はみな貨幣を欲しがります。貨幣を持てば、どのような商品でも手に入れることが出来るからです。 だが、貨幣の実態は、何の価値もない単なる紙切れや金属片でしかありません。その紙切れや金属片が1万円や1ドルの価値として受け取ってくれるからにすぎません。そしてその他人が受け取ってくれるのも、さらに他人が受け取ってくれるからにすぎないのです。それゆえ、誰も貨幣を受け取ってくれないと人々が思い始めれば、実際に誰も貨幣を受け取らなくなってしまいます。ハイパーインフレーションとよばれる現象がそれです。その時、貨幣は急速に価値を失い、最終的にはその実態である単なる紙切れや金属片に戻ってしまうのです。 そのことを極端な形で表しているのが小瓶です。それは一見すると、どのような願いも叶えてくれる素晴らしいものに見えます。だが、その実体は地獄なのです。誰かが買ってくれなければ、持ち主の魂は子鬼によって地獄に引きずりこまれてしまいます。しかも、人から人へと売り渡される度に価値がさがるこの小瓶には、ハイパーインフレーションが初めから仕込まれているのです。誰かの魂が必ず地獄に堕ちるのです。そして、その運命がケアウェに降りかかったのでした。 だが、話はまだ終わりません。この物語にはさらに、貨幣の論理を超越する倫理が語られているのです。 コクアは幸せなはずの結婚生活なのに、ケアウェが絶望しているのに気がつきます。その理由を知ると、聡明な彼女はフランス領のタヒチでは1ドルより小額の1サンチームが流通していることを思い出し、ケアウェとともに移り住みます。 しかし、タヒチでは誰も小瓶を買ってくれません。そこでコクアは意を決し、人を介してケアウェに内緒でケアウェから小瓶を買い取ってしまうのです。だが、ケアウェはすぐそのことを察します。今度はケアウェが、人を介してコクアから内緒で小瓶を買い取る決心をするのです。 貨幣を手に持つ人間にとって、他人はすべて自分のための手段にすぎません。自分の手元の紙切れや金属片を貨幣として受け入れてくれさえすれば、その人間がどのような人間であっても構わないのです。 すべての人間がすべての人間にとっての手段となってしまう世界―それは、まさに地獄です。そしてそのことを単なる比喩ではなくしてしまうのが小瓶です。その持ち主にとって、すべて他人は自分の魂を地獄に堕とさないための手段でしかありません。いや誰か他人の魂を地獄に堕さなければ、自分の魂が地獄に堕ちてしまいます。道理で小瓶は恐ろしい顔をしているはずです。 だが、コクアとケアウェがそれぞれ相手に内緒で相手から小瓶を買おうとした時、貨幣の論理が逆転します。二人は共に、相手を自分の手段とするのではなく、逆に自分を相手の手段としようとしたのです。本来なにものとも交換しえない絶対的な価値であるべき自分の魂を犠牲にして、相手の魂を救おうとしたのです。 ここに、魂の交換が成立したことになります。だがそれは、同じ貨幣価値をもつモノ同士の交換ではありあません。二人がそれぞれ、何者とも交換しえない絶対的な価値を一方的に相手に与えることによって、結果的に成立した交換なのです。それは、貨幣的な交換を超越したまさに倫理的な交換であるのです。 そして、この交換には別名があります。「愛」という別名です。 もちろん、奇跡が起こります。 ケアウェに頼まれて小瓶をコクアから買いとったアル中の水夫長が、お酒欲しさにそれをケアウェに売り渡すことを拒否してしまうのです。 二人が末永く幸せに暮らしたことは言うまでもありません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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