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2004年09月25日
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先ほどテレビ朝日(ビートたけし真相解明)にて、ダイアナ妃の番組をやっていたので、今日はダイアナ妃について少し。

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【ダイアナ元皇太子妃年譜】

1961年7月1日、現スペンサー伯の3女としてノーフォーク州サドリンガルに生まれる。

68年、両親が別居。のちに離婚後、父親に引き取られる。

74年、祖父が死去。一家はロンドン郊外のオルソープ城に移る。

76年、父が再婚。

77年1月、長姉セーラが皇太子妃候補と騒がれる。この頃チャールズ皇太子と会う。
6月、全寮制学校を卒業。その後スイスの花嫁学校に入るが、6週間で帰国。

79年1月、女王主催の狩猟パーティに招かれ、皇太子に再会。
11月、ロンドン市内の幼稚園に保母として勤める。この頃曾祖母の遺産で購入したロンドンのマンションで友人と共同生活を始める。

80年6月、皇太子はスコットランドの大地主の娘に失恋。その後、夏ごろからダイアナを結婚相手として考え始める。

81年2月24日、皇太子との婚約を発表。
7月29日、皇太子とセント・ポール寺院で挙式。
8月1日、ヨットで2週間の地中海ハネムーン旅行。
11月5日、おめでたを発表。

82年6月21日、午後9時30分、長男ウィリアム王子を出産。翌日には退院し国民を驚かせる。

84年1月10日、新ダイアナカットが報道される。
2月13日、9月末に第2子出産を発表。
9月15日、午後4時20分、次男ヘンリー王子出産。
11月、ヘアスタイルを変えるが不評。

85年2月26日、皇太子の元侍従がダイアナ妃と女王、アン王女の不仲を暴露。

87年7月、英大衆紙が不仲による離婚説を一斉に報道。

89年2月1日、初の単独訪米。

91年3月、乗馬の先生だった、ジェームズ・ヒューイット元近衛将校との交際が報じられる。
4月16日、英大衆紙「サン」が夫妻の「別居状態」をスクープ。

92年6月5日、英大衆紙「過去5回、自殺未遂騒動を起こしていた」と暴露報道。
6月16日、アンドリュー・モートン著「ダイアナ妃の真実」が発売され皇太子とカミラ・パーカーボウルズ夫人との不倫が原因で、5度の自殺未遂をはかったこと、拒食症に陥っていたことが発覚。
11月6日、韓国訪問に同行した記者団が夫妻がそっぽを向く写真を掲載。これを受けて「報道は事実を誤っており、有害」と異例のマスコミ非難を発表。
12月9日、メージャー首相が、皇太子夫妻の別居を発表。

93年3月27日、息子たちと出かけたスキー場で、取材協定を破ったカメラマンに激怒。
11月7日、フィットネスクラブでレオタード姿が盗撮され、これを受けて英高等法務院が大衆紙に「これ以上写真を掲載してはならない」と命令。
11月9日、フィットネスクラブと「デーリー・ミラー」紙を告訴。
12月3日、公務からの一時撤退発表。

94年6月29日、皇太子が英テレビのドキュメンタリーでカミラ夫人との不倫告白。
10月3日、アナ・パステルナーク著「プリンセス・イン・ラブ」でヒューイット元近衛将校と愛人関係にあったことが発覚。

95年1月、カミラ夫人の離婚発表。
8月14日、ラグビー選手ウィル・カーリング氏との不倫が発覚。
11月20日、英BBCとの初の単独会見に応じ、ヒューイット元近衛将校との不倫を認める。
12月20日、エリザベス女王が夫妻に対し、早期離婚を勧告する手紙を送付。

96年1月、弁護士と離婚条件について協議を開始。
2月28日、離婚同意の声明を正式に発表。
7月12日、慰謝料は推定1700万ポンド (約29億円)、「ハー・ロイヤル・ハーネス」 (妃殿下)の称号剥奪などの条件で、離婚に正式合意。務めていた約100の慈善団体の会長や顧問職を辞任。
8月28日、離婚成立。

97年1月13日、赤十字特使としてアンゴラを訪問し、対人地雷の全面禁止を訴える。
3月9日、ウィリアム王子の堅信式に出席。
7月15日、エジプト人富豪アルファイド一家と南仏で休暇を過ごし、長男で映画プロデューサーのドディ氏と意気投合。
8月7日、ドディ・アルファイド氏と地中海の島でバカンスを過ごしたと英大衆紙が一斉に報道。
8月8日、地雷撲滅キャンペーンの一還でボスニア訪問。
8月14日、アルファイド氏の元婚約者の米国人モデルが婚約不履行で氏を告訴。
8月22日、アルファイド氏と地中海に3度目の休暇に出かける。
8月30日、午後アルファイド氏とショッピングにため、フランス・パリに到着。夜、高級ホテル「リッツ」で夕食。
8月31日、午前0時すぎ(現地時間) 黒のベンツでリッツを出発、カメラマンが追跡。
午前0時35分-40分、セーヌ川沿いの自動車道路内のトンネルでベンツが中央分離帯の柱に激突し、反動で右壁に衝突。アルファイド氏と運転手は即死状態。
午前0時45分、最初の救急車が現場到着。その場で元妃に約1時間にわたる蘇生処置の後、病院へ搬送。
午前2時ごろ、開胸手術を行う一方、心臓マッサージを続ける。
午前4時、死亡確認。
同日、英「デーリー・メール」紙が、ダイアナ元妃が死の6時間前に11月には一切の公的活動から引退する決意を電話で同紙王室担当記者に語っていたことを明らかに。
午後7時、皇太子と2人の姉とともに空軍機で遺体が英国に到着。

9月6日、ロンドン・ウエストミンスター寺院で王室特別別葬。





1997年の十大ニュースの第1位は、パリの高速道のトンネル内で死亡したイギリス王室ダイアナ妃の自動車事故であった。

ダイアナ妃とは何者であったか。

8代目ジョン・スペンサー伯爵と、ファーモイ男爵家のフランセス・ロシュは、恋に落ちた。やがて2人は結婚式を挙げ、女の子が生まれたのは1961年7月1日のことであった。
この世に呱々の声をあげた三女がダイアナ・フランセス・スペンサーと命名されたのは、フランク・シナトラに“マイ・ウェイ”を捧げたポール・アンカが、この“ダイアナ”をヒットさせた4年後のことであった。

さて、彼女の母フランセスは、ダイアナが7歳になると、早くも“マイ・ウェイ”を歩みだし、スペンサー伯爵と離婚して、たちまち別の男ピーター・シャンド=キッドと、再婚してしまった。が、ダイアナの父スペンサー伯のほうも負けてはいなかった。レイン・マッコーコデールという女に言い寄ると、こちらも再婚したのである。

スペンサー伯が92年にこの世を去ると、自由の身になったレイン・マッコーコデールは、1年後にたちまちフランスの女たらしジャン=フランソワ・ド・シャンブラン伯爵と結婚した。

ダイアナの長姉セーラは、生まれた時からエリザベス女王が庇護者となって、継母の生家マッコーコデール家に嫁ぐ、という乱脈をきわめた一家であった。
このように立派な環境に恵まれたダイアナは、ある日、めでたく華燭の典をあげ、チャールズ皇太子妃となった。

ダイアナ妃の実母フランセスは、ピーター・シャンド=キッドと再婚した、と述べたが、イギリス貴族の最も格式ある人名録を開くと、確かに彼女の履歴がシャンド家の一員として記録されている。シャンド家の人間は、そこに数人しか記載されていないので、ふと、彼女の前に目を落とすと、ロザリンド・シャンドという女性の名があり、さらにその前を見ると、ロザリンドの夫ブルース・シャンドについての記述がある。そして、この夫妻のあいだに生まれた娘の名前を読み取って、愕然としたものである。

カミラ(パーカー=ボウルズ)と書かれていた。

この名前には、誰しも聞き覚えがある。
ある日、妻ダイアナに興味を失ったチャールズ皇太子が、世紀のゴシップとして目を注がれた女性が、そのカミラ・パーカー=ボウルズであった。

ダイアナ妃の実母が再婚したシャンド家が、ダイアナ妃から夫チャールズを奪った恋人の生家だったことになる。
イギリス王室は、このようにわれわれと変わらず、普通どこにでもある恋愛をくりひろげてきた。
しかしこれは、世間が考えるようなゴシップではなかった。

チャールズの恋人カミラの母ロザリンドを調べてみると、事理の妹の父は、ピーター・キャリントン卿であった。彼はゴシップが報道された当時、国連代表として、目をおおうばかりの人殺しが続くユーゴスラビア内戦の調停人をつとめたヨーロッパ軍需産業の総帥だったのである。

97年8月31日、パリでダイアナ妃が交通事故で死亡したとき、恋人のドディ・アル=ファイドも同乗しており、共にこの世を去った。

ドディの父モハメッド・アル=ファイドは、イギリス王室御用達のデパート「ハロッズ」のオーナーとして有名なアラブ人大富豪であった。彼は、54年にサミラ・カショーギという女性と結婚し、その兄アドナン・モハメッド・カショーギの義弟となっていた。そのあいだに生まれたのが、ダイアナ妃と一緒に死んだ恋人ドディである。しかしドディの父は、なぜ豪華デパート「ハロッズ」を買い取るほど巨額の金を持ち、大富豪だったのか。

ドディの伯父にあたるアドナン・カショーギは、66年、サウジアラビアのファイサル国王に同伴してアメリカを訪問した。ファイサル国王は、ニューヨークなどで重要なアラブ外交を展開したが、同伴者のカショーギは、さらに重要な非公式の昼食会に出席していた。

そこに、誰が集まっていたであろう。ロッキード社、マクドネル・ダグラス社、レイセオン社、クライスラー社、リットン・インダストリーズ社など、全米の軍需産業の社長・会長クラス、最高幹部がずらりと顔を揃え、カショーギを囲んで、ある世界情勢について、危険な会話をはずませていたのである。ライバルである彼らが一堂に会するのは、尋常な出来事ではなかった。

やがてモハメッド・アル=ファイドは、義兄カショーギの秘密事業で総支配人となり、全米を代表するそれらの軍需産業から、莫大なコミッションが支払われるようになった。ジュネーヴにあるスイス銀行のカショーギ口座に、大金が振り込まれるようになったのである。


これらは、発覚した中のわずかな事実である。ほとんどは発覚せずに、アドナン・カショーギの名前は、全世界の戦乱の陰に暗躍する“死の商人”として、欠かせない代名詞となった。サウジの兵器商ではなく、アメリカとヨーロッパの軍需産業がひき起こす戦争の火付け役として、アル=ファイドと共に、数百万から一千万人単位の生命を、傷つけ、あるいは、この世から消す役割を果してきた。
その商品のひとつが、地雷だったのである。

ダイアナ妃が、96年にチャールズ皇太子と正式に離婚するにあたって、彼女がエリザベス女王に請求書をつきつけた“慰謝料”は、膨大な額におよぶものであった。

22億円を超えるケンジントン宮殿をはじめとして、年金5億円のほか、イブニングドレス120着、ドレス300着、靴350足、帽子320個、バッグ200個、無数の貴金属宝飾品、骨董品など、残念ながら知的なものはほとんどなく、ただただ値段のはる品ばかりが並んでいた。

ダイアナ妃の未来の夫ドディの父アル=ファイドと伯父カショーギが、ドディのハリウッド映画作費を生み出し、地雷をユーゴに敷きつめていたことは、彼女にとって、常識以前のことであった。
彼女が地雷をこの世からなくす運動を呼びかけたという根強い伝説は、これからも続く。
地雷廃絶運動をすすめてきた市民運動に、ノーベル平和賞が贈られた。

これだけの数々の事実を組み合わせた全体像が、ダイアナ妃の死後、一体どのメディアで正確に報道されただろう。

これは、一女性にまつわる王室ゴシップであろうか。

この人の葬儀に、200万人が参列したという。

これが、“情報”の氾濫と呼ばれるものの正体である。200万人を動かした“情報”とは、屑の山、ということである。

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※ 以上は「地球の落とし穴」広瀬隆(著)の第2話から抜粋した転載です。








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最終更新日  2004年09月25日 23時12分44秒
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