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テーマ:徒然日記(22704)
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陸軍中野学校の教科書が8種も発見されたとのこと。まずはその記事を転載。 戦時中工作員養成、陸軍中野学校の教科書8種発見 戦時中に諜報・謀略を専門とする秘密情報工作員を養成した陸軍中野学校で使われていた教科書と、本土決戦に備えた国内遊撃戦の演習計画文書が見つかった。同校出身者が所有していたもので、終戦間際に使用されたという。中野学校の関連文書類は終戦直後、焼却処分になったとされ、実物が確認されるのは珍しい。戦後60年、中野学校の教育内容が、具体的に明かされることになった。 所有していたのは新潟県巻町に住む農業斎藤津平さん(81)。1945年1月に「第八期丙種学生(八丙)」として入校、同年7月に卒業した。 教科書は「謀略」「偵諜」「宣伝」「国体学」「人ニ対スル薬物致死量調」など8種類。演習計画書は「戦術」と題されている。縦約25センチ、横約18センチの大きさのものが多く、数ページのデータ集もあれば、二百数十ページに及ぶものもある。 「謀略」は平時の水面下での策略の大切さを教え、「偵諜」は各種の敵情の探り方を概説する。「宣伝」ではゲーテの「ファウスト」に登場する悪魔メフィストフェレスの手口を参考にするよう指摘、「極意ハ『身ヲ磨(す)リ寄セテ行ク気持』デアル」など人心懐柔の要点を説く記述もある。 中野学校の教育内容は一般教養や専門学科のほか、外国事情、盗聴や変装術といった実科、剣術や拳銃を教える術科など多岐にわたっていた。終戦が近づくと、遊撃戦演習に重点が移った。教科名や演習実績は出身者らの証言で明らかになっており、筆写された資料は一部公刊されたが、詳細は明らかになっていなかった。 ◇ 〈陸軍中野学校〉 38年、「後方勤務要員養成所」として創設。40年8月に陸軍中野学校令が発令され、翌年、参謀本部直轄となった。44年、静岡県に二俣分校を設置。フィリピンのルバング島で約30年間潜伏し、帰還した小野田寛郎さんは同分校の1期生だった。8年間に生み出した情報工作員は、2500人に上る。 市川雷蔵主演のシリーズ映画などで関心を集める一方、校史「陸軍中野学校」や出身者の手記、ルポルタージュも出ているが、実態は不明な点が少なくない。 (02/07 10:55) http://www.asahi.com/national/update/0207/008.html 陸軍中野学校については映画や本などで“作品”を見ることはできますが、具体的にどのような教育をしていたのか…うーむ、読んでみたい。 陸軍中野学校と深い関係にあった中のひとつに「陸軍登戸研究所」がありました。 陸軍登戸研究所 陸軍登戸研究所は、 1939年4月に陸軍科学研究所の秘密戦資材研究室を登戸出張所として神奈川県の稲田登戸地区に設置した。 1942年に陸軍兵器行政本部管轄の陸軍第九技術研究所となり、参謀本部第二部第八課に直結していた。参謀本部第二部第八課は、謀略・諜報を指揮していたので、陸軍中野学校、特務機関および憲兵とは深い関係を持っていた。 また、陸軍習志野学校および陸軍第六技術研究所と化学兵器研究に関係があり、陸軍軍医学校と関連し、関東軍第七三一部隊・第一六四四部隊と細菌兵器研究に関係があった。 当時は、秘匿名を陸軍登戸研究所とされ、看板も「陸軍登戸研究所」と掲げられていて、地元では陸軍の実験場と呼ばれていたようである。 秘密戦資材 秘密戦とはスパイ戦であり、007シリーズのQ課が 日本陸軍の「登戸研究所」に当たる。 ※ 詳しくは「秘密戦資材」をクリックしてお読み下さい。 陸軍登戸研究所の概要 兵器行政本部の研究 なぜ中野学校の話から登戸研究所の話に移したのかというと、最近のニュースで中心の話題となることが多い「偽札事件」と「陸軍登戸研究所の“遺産”」には何やら怪しい関係があるのではないかという疑問を提示してみたかったからでした(笑) というのも、戦時中、登戸研究所は「偽札を量産していた」のである。いわゆる「杉工作」(杉工作についてはこちら)。この偽札を海外に輸送していたのが「陸軍中野学校出身のスパイ」だったと言われている。 で、現在の「偽札事件」には大きな組織的なものを感じるわけですが、「偽札をつくる技術」というものが登戸研究所から“受け継がれている”と仮定できるとするならば、なにやら大掛かりな闇の組織の存在を想像してしまうわけです。…根拠がないので妄想になるが、こんな考え方はもう古いかな(笑) 現在の「偽札事件」、その中枢にいるのは「外国人」なのか、「日本人」なのか、あるいは「両者」でしょうか。 日中戦争時の工作 偽札 日中戦争当時、日本陸軍が中国経済をかく乱するため大量のニセ札を偽造、使用していた謀略の全容が、関係者の証言で明らかになった。証言したのは、「対支経済謀略実施計画」、別名「杉工作」の立案から実行までに携わった元陸軍主計大佐。「後世にいたずらな疑念を残さないため、さらに戦争責任を反省する一助になれば」と、永らくためらってきた秘話の公開を決心した。工作の本拠地となった登戸研究所(川崎市)での偽造の実態や、中国の秘密結社と協力して開拓した流通ルートなど謀略の全容が、工作当事者から明らかにされるのは初めて。 この人は、東京都狛江市に住む日本宝石鑑別協会理事長の山本憲蔵さん(八三)。大正十年に陸軍経理学校を卒業後、主計将校として各地に赴任しながら、中国の幣制を研究していた。昭和十四年、諜報や謀略を担当する参謀本部第八課に配属され、秘密戦兵器の研究・製造機関だった兵器行政本部第九技術研究所(通称、登戸研究所)の研究員となり、ニセ札作りに没頭した。手記によるその概要は――。 <背景>当時、中国大陸では国民政府の通貨である「法幣」と、共産党軍が解放区で発光する「辺区券」、さらに日本軍の軍票などが通貨戦争を演じていた。しかし、大半の地域で法幣が圧倒的に優勢で、物資の現地調達は法幣でなければ困難だった。このため、泥沼状態の戦局打開に悩む陸軍は、経済戦の一環として「偽造券による法幣崩壊工作」の構想を進めた。その実務を命じられたのが山本さんだった。 <偽造>ニセ札作戦は、昭和十四年夏から登戸研究所で本格的に始まった。現在、明大生田校舎のある同研究所は、後に風船爆弾の研究を手がけた物理・電気関係の第一科など五つの科に分かれ、山本さんは印刷・製紙関係の第三科長として偽造を指揮した。要員は、内閣印刷局からの転属技術者など約二百五十人。ほかに、新札に汚れや手アカをつけるため、地元の高等女学校から女子挺身(ていしん)隊員を二十五人ほど採用した。 第一回試作品の五円券は同年暮れに出来上がったが、孫文の肖像がゆがむなど、完全な失敗だった。その後、印刷会社などの協力を求める一方、内閣印刷局の門外不出の秘伝とされた「黒漉(すき)入り」の技術を「盗みとる」など、試行錯誤を重ねて独特の方法を開発。同十五年夏には、本物そっくりの紙幣が完成し、量産体制も整った。 <流通>ニセ札の輸送には、陸軍中野学校の出身者があたり、毎月二回ほど、長崎経由で上海に届けられた。現地では「松機関」が流通工作を担当し、機関長は陸軍参謀の岡田義政中佐、実質上の責任者は軍の嘱託で阪田誠盛という実業人だった。阪田氏は、流通工作のため、上海を中心とする暗黒街を支配していた秘密結社「青幇(ちんぱん)」の幹部の娘と結婚して協力をとりつけ、青幇の首領で蒋介石の腹心でもあった杜月笙の家に、松機関の本部を置いていた。 「陸軍贋幣作戦」と題する山本さんの手記は、現代史出版会(〇三-四三一-二一四九)から出版される。 [朝日夕刊・S59年頃] http://asyura2.com/sora/bd13/msg/313.html 大学校内に残る戦跡、何を語る… 歴史の証人、課題は保存 ●陸軍登戸研究所跡 ◆明治大◆ 明治大生田キャンパス(生田駅徒歩10分)には、陸軍登戸研究所があった。陸軍科学研究所が電波兵器の実験の適地を求めて、1937年に登戸実験場を開き、最終的には第9陸軍技術研究所となった。米本土攻撃のための風船爆弾や細菌兵器の開発、スパイ戦用の武器・機材の開発、偽札づくりなどを行い、人体実験で有名な731部隊などとも関係があったという。 (略) 正門を右に曲がり、すぐのところにひっそりと動物慰霊碑が建っている。実験に使った動物や人の慰霊のために建てられたものだが、登戸研究所の関係者もわずかしか、その存在を知らなかった。一方、キャンパスの西にある弥心(やごころ)神社は、実験中に誤って命を落とした隊員を祭ってある。いずれも陸軍技術有功賞の賞金で建てられたという。 キャンパスの南には、木造の建物が2棟現存している。向かって右手の5号棟は偽札製造の工場として、左手の26号棟は倉庫として使われていたという建物で、ツタが絡まって朽ちるままという感じで、平屋の割に高さのある建物だ。 (略) 毎日新聞 2004年8月14日 東京夕刊 2000年秋季史跡踏査 登戸研究所他 (略) 中原平和公園は、かつてアメリカ軍が登戸研究所の印刷技術を利用して朝鮮戦争の時偽札をつくった工場があった。 (略) http://www2.ocn.ne.jp/~bukai-hi/an-sisekinoborito2.html 円・元・ドル・ユーロの同時代史 第21回~日本が手がけた贋金づくり 「阪田機関」と日本が手がけた「杉工作」 (略)杉工作とは「日本の陸軍登戸研究所長の篠田大佐〔中略〕の下で、第三科長の山本主計少佐〔中略〕が中心となって、内閣印刷局、凸版印刷株式会社〔中略〕、それに巴川製作所の協力を得て、極秘に偽造した中国の法幣を中国内で大量にバラ撒くことによって、〔中略〕中国に大インフレを起こさせて経済を壊滅させ、戦争が出来ないようにして、早期に和平に持ち込むこと」だった。 散布工作を担ったのが阪田機関であり、阪田は「その紙幣でアメリカを中心とする海外からの援蒋物資を買い占めることによって、一つには、偽造法幣を大量にバラ撒く、二つには、偽造法幣で日本が不足しているガソリン等を買い付ける、つまりただで戦争をする、という一石二鳥を狙った」ものだったらしい。 阪田は上海闇世界の巨魁、杜月笙(とげつしょう)の協力を得て重慶の蒋介石政権と交易を結び、物品購入に問題の偽造紙幣を用いた。阪田が売る商品の代金は正規の法幣で受け取るので交易はマネーロンダリングの効果を帯び、一石三鳥となったようである。(略) 日経BP ※ 帝銀事件 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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