あなたは一日二十四時間中、明るい心と暗い- あなたは一日二十四時間中、明るい心と暗い心と、どちらが長かったか -劣等感、罪悪感も心の問題である。 劣等感、罪悪感を持っている人は、幸福になるチャンスが与えられても 「わたしみたいなものが、そんなに幸福になる資格はない」 という心が潜在意識の中にあるから、現在意識では「幸福になりたい」と思っているのに、つい反対のことを言ってしまって、折角のチャンスを自分でぶちこわしてしまうのである。 人間は罪の子だ、罪悪深重の凡夫だという誤った人間感を持って、いつも心の中で、即ち潜在意識で 「わたしは悪い、わたしは悪い人間だ」 と思い続けているのでは、心はいつも暗くなる。 心が暗くなると、「こういう病気になりたい」と思うことは絶対になくても、肉体細胞に暗い印象を与え、身体全体のバランスが崩れ、生理作用に変調を来たして病気をするのである。 絶対に悪いことはしない、悪いことは思わないのに、いつも正しいことをいい、正しいことをしていて、多くの人から 「あんな良い人が、どうしてあんなに病気をするのであろうか」とか 「どうしてあんなに運が悪いのだろうか」という人がある。 みなさんの周りを見ていただきたい。 正義感の非常に強い人で、曲ったことは絶対に嫌いだという人で、運が悪いという人がいられる筈である。 それは、その人は自分では曲ったことは絶対にしない。 言う事もやる事もいつも正しいのであるが、自分が正しいことをしているだけに、人が少しでも間違った事をすると、それだけに、 「あいつも、こいつもけしからん」 といって心を暗くしてしまって、人を心の中で裁いてばかりいるからである。 自分の心を暗くしないようにして、なにが善であり、なにが悪であるという事がはっきりわからなければいけないのである。 正義感の強い人が、よく高血圧などで倒れたり、心臓疾患で狭心症や心筋硬塞などで倒れたりするのは、自分は正しいことをしているのに、相手があゝだこうだといって、いつも腹を立てて怒っている。 表面ではやはり怒ってはいけないと思っているから、怒っていないようなふりをしていても内心では怒っているから、血圧も高くなってくるのである。 高血圧や心臓疾患の人で一番厄介なのは、腹が立ってもそれを感情に現わすのは、はしたないことであるといって、感情を抑えてこらえて我慢している人の場合である。 日本人は永い間、儒教が教えてきた「喜怒哀楽を色にあらわさず」ということを徳としてきた。 確かに、うれしいといっては飛上り、悲しいといっては泣き、くやしいといっては歯ぎしりするという感情的な人間は良識的とはいえない。 しかし、嬉しい事があっても嬉しそうな顔もしない、悲しいといっても涙一つこぼさないという、いつも能面みたいな顔をしていて、いつも心をこらえているというのも極端で人間味がない。 だから極端から極端はいけないので中道でなければいけない。 嬉しい時には嬉しいと言い、嬉しそうな顔をすれはよい。 しかし、すればよいからといって、悲しい出来事があって悲しんでいる人の前で、自分に嬉しい事があったからといって嬉しそうな顔をするのは良織がない、智慧がない、思いやりがないといわなければならない。 悲しいことがあって涙を流すことがあっても、いつまでもその悲しみにとらわれない。 怒ることがあっても、いつまでも腹を立てて怒っていてはならない。 うれしいことがあったら素直に喜べばいい。 だからといって有頂天になって、足元が見えないようになってはいけない。 即ち喜怒哀楽は喜怒哀楽として感じながら、それに執着せずに心が安らかに調和して生きていくということが大事なのである。 高橋信次先生が「心が運命をつくる」「心がモノを創造する」といわれた心は、われわれが「あゝしたい、こうしたい」とか、「好きだとか、嫌い」というような現在意識だけを示していられるのではないのであって、現在意識プラス潜在意識をいっていられたのである。 現在意識ではいくら幸福になりたいと思っていても、潜在意識が幸福になることを拒杏していると幸福になれない。 例えば過去に罪を犯していると強い罪悪感が起り、現在意識では幸福になりたいと思うのに、潜在意識は「自分のような罪を犯した者が幸福になるのはおこがましい」とか 「幸福になっては申訳ない」と思い、一方では幸福になりたいと願いながら、一方では自分が不幸であることに、ホっとするという心が働く。 だから幸福になるためには、現在意識、潜在意識ともに幸福を願う心にならなければいけないのであって、潜在意識の中にあるところの自分が、幸福になることを否定している暗い心をなくするのが反省である。 |