カテゴリ:サンダー・シング
ヨーロッパを回ってみて、サンダー・シングは次のように述べている。
「わたしはこれらの国々の住民が皆素晴らしい人々であると考えていた。彼らの心の中に神の愛を見、彼らが私にしてくれたことを見たとき、考えが変わった。全く別であることがわかったのだ。真の神の僕がこれらの国々にいる事は事実だが、全員がキリスト者ではなかった。わたしは異教の国々の住民とキリスト教国の住民とを較べ始めた。前者は手で作った像を拝んでいるがために異教徒と呼ばれる。ところが、自称キリスト教国において、わたしはもっとひどい異教徒を見た。人々は自分自身を崇拝していたのである。祈りもせず、神の御言葉も読むこともせずに、彼らは劇場に走り、あるいわ、酒に正体を失い、ありとあらゆる罪に耽っている。真にキリスト教的な国は一つもないことを知ったが、それでも個人的クリスチャンはいる。 このことに関して、キリストには責めはない。主にあって欠けるものは何一つない。主の信者と称しながら、指導者たる主に従わぬ者たちに責めはある。主はパレスチナで33年間過ごされたが、そのパレスチナはキリスト教国とはならなかった。ある人々は主に従い、後に主の証人となり、殉教に生命さえ投げ捨てた。同じ事が今も起こっている。」 サンダーシングはこのような、生命の水を汲まないために渇き切ってしまった殺伐たる人の心を川底の石にたとえる。 「あるとき、ヒマラヤ山中で川辺に座っていたわたしは、ふと水の中に手を入れて硬い、きれいな玉砂利を手にとって見た。割ってみると、中は乾いていた。長年川底にあったにもかかわらず、この砂利の中には、水が染み込んでいなかったのである。まさに、これと同じ事がヨーロッパの人々にも言える。彼らは幾世紀にもわたりキリストの教えに囲まれてきた。その恵みにどっぷりと浸って生きてきたにもかかわらず、キリストの教えは彼らの中に浸透せず、彼らの中に生きていない。キリストの教えが間違っているのではない。硬化した心に原因があるのだ。物質主義と知識主義が、彼らのこころを硬化させているのである。そこに住む多くの人々が、真のキリスト教の何たるかを悟らずにいることに、わたしは全く驚かない。」 東の果てからやってきた若者にわざわざ忠告されなくても、西の霊的危機を感知していた思想家はすでにたくさんでていた。19世紀ドイツの哲学者ショーペンハウエルは、いち早く東洋に霊性に着眼し、次々とヒンドゥー教の聖典を西に紹介し始め、東洋哲学によって西の霊的欠損を埋め合わせようとする試みは、野火のように広がりだしていた。だが、彼らは選択を間違ったのである。白く塗り固めた墓のごとき名目的キリスト教の霊的渇きは、東洋思想との混淆によっては満たされない。生命の泉そのものであるキリストに立ち帰るべきだった。 これまで東洋から訪れた思想家たちは、みなオウムのように「東洋の古代智に学べ、東洋の瞑想を取り入れろ、」と同じことを言い、東と西との統合に当たって、キリストの教えよりも、ヴェーダやウパニシャッドといったインドの古代聖典を優越させることを忘れなかった。これもまた、もう一つの危機的要因を成していったのである。どうしても、キリストの大元の教え、生けるキリストの臨在を実証する使途的存在が必要だった。 サンダーシングはその必要を満たすために遣わされたのである。西洋の霊的怠惰をけん責する預言者の役目を背負ったのも当然である。彼自身は、ただ、自分の経験を証するために来たに過ぎない。だが、遣わしたキリストは、彼の口を通して、西洋の眠りこけた自称キリスト者たちに対し、厳しい叱責の言葉を容赦なく浴びせるのである。このようなときには、サンダーシングはまったく臆することもなく、堂々と西の霊的偽善を責めた。 「わたしが語ることは、あなたがたの不興を買うことはわかっている。しかし、私は自分の良心に従い、神からいただいたメッセージをあなた方に伝えなけらばならない。」 彼はこのように前置きして、自分の語る、ーー語らざるを得ないーーことが自分からではなく、神から託されたメッセージである事を明らかにした。 「私はこれまで、西欧諸国の住民が聖書を読む、天使のような人々だと考えていたが、この国々を旅してみて、自分の誤りを知った。彼らのほとんどは顔は白いが心は黒い。異教の国々では、人々が寺院にいくのを私は見る。彼らは神を畏れる民である。しかし、ここでは、快楽以外は何も思わないような人々ばかりを見かける。自称キリスト教国は大きくキリストから離れ去っているため、主は喜び迎え入れられる異教の民に、自らを現され始めている。こうして、初めの者は後に、後の者は初めになるという主の言葉が成就する」 彼の言葉はますます預言的色彩を帯びてくる。エルサレム陥落を宣言したエレミヤ、ニネベ滅亡を予告したヨナ、パリサイ人の偽善を責めたキリストを思わせる厳しい叱責の言葉が、並み居る聴衆の心に深く突き刺さった。 「キリストの教えからこれほどの多くの恵みをいただいた西の人々は、快楽、金銭、贅沢といったこの世のことに信頼をおいているがために、今やこれを失おうとしている。かの日には、非クリスチャンの方がまだしも刑罰が軽いだろう。キリストを聞いたことがなかったからである。だが、キリスト教国の人々は、はるかに重い罰を受けよう。主の教えを聞きながら拒んだからである。キリストが御使いを従えて戻ってくる日が近づいている。そのとき、主は自称キリスト教徒たちに向かってこういわれるであろう。 「わたしはあなたがたを知らない。あなた方はわたしの名を知り、わたしが誰であるかも知った。あなた方は、わたしの生涯と働きを知った。しかし、わたしを個人的に知ろうとはしなかったのである。私はあなた方をしらない」と。 あなた方が主を栄光の中に見る日、あなた方は、主を神と信じなかったことを嘆く事であろう。しかし、そのときは遅すぎるのである。あなた方は、主の神性を否む学者や不信者に惑わされる事を許してきたのだ。そのときに悔い改めても、もはや遅すぎる。」 彼はこの言葉を最後に、ヨーロッパの塵を足から払い落とし、二度とふたたび、「キリスト教国」の土を踏む事はなかった。
彼はこのように、臆せず真実を語ることを通して、快く思わないキリスト教徒、教会側から攻撃を受けるようになります。彼は、キリスト教国のことだけにとどまらず、教会組織についての欠点も指摘する。 人間は罪を他から指摘されると怒る。人間の集合体である教会組織にもそれは言える。彼らは耳障りのいい言葉は歓呼して迎えるが、いかに真実であっても、不愉快な事は聞きたくないのである。特に教会の権威者、支配者側には言えることだ。 サンダーシングを逆に断罪しようとの試みが開始される。 あらゆる論争が巻き起こる中、当のサンダーシング自身は、何とも思っていなかった。彼は幾度となく、生けるキリストを証言するため死さえ潜り抜けてきたのである。彼の目にはこの世ではなく、天上のキリストに常に開かれていた。そこにこそ真実はあるのだ。やがて誰もが死を通り、霊界に入った時にすべての真実を知ることになる。すでに生きながらにして実体を体得していた彼は、「真実は真実自ら証言する」とのみ答え、全く人間界の争いからは超越していた。 彼の言葉。 「わたしは、この度の批判については何も気にしていません。神は価値なく弱きわたしが、神の御恵みによってできる限りの役目を果たした事を知り、今や、この世と、サタンにその役目を果たさせておられるに過ぎません。神の栄光にとって十分満足のゆく結末になるでありましょう。神がこのようなことが起こるのを許されている理由はそこにあります。私は自分の欠点と弱さをし知っておりますが、自分の若い日々を神のため神の御名において人々のために費やすことが自分のすべての願いであった事は決して隠す事ができません。天の父もそれをお許しにはなりますまい。残りはすべて御手に委ねたいと思っています。今のわたしの祈りは、自分が世を離れ、神の栄光の中に入る前に、チベットに今一度行くのを許されることです。」
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