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関係力(相対性)経済学RELATIVITY ECONOMICS

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2012.06.03
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[the photo is not related to the content]

昨日、ぼくの興奮を生のままで記録した。

長年探しあぐねていた古い恋人をとうとう見つけたとか、ジャングルの奥深くに埋蔵されていた宝を見つけたとか・・・そんな陳腐な表現しか思い浮かべることができない自分が悔しい。この感動を言葉では言い表すことが難しい。なぜなら、かつて味わったことがない興奮だからである。

じつは、量子力学もこの「表現」の苦しみを味わっているのである。光が粒子であると同時に波であるという。これはあくまで、人間が日常認知しているマクロの表象から借りてきた表現であるが、それはとうてい理解できない不可思議なものである。これを表現するには、自然言語では不可能であって、数学の抽象度をもってしなければならない。というのは、粒というと、じきに小豆や砂粒を思い浮かべてしまう。波というと、じきに海浜に押し寄せる波のことを思い浮かべてしまう。色も匂いも音も温度もつきまとった具象的なものである。それらの属性を全く欠いた粒や波は一つの抽象物であるけど、このような抽象的な表象はニュートン以来、古典物理学でも扱ってきた。質を欠いた質点。だからこそ物理学者は伝統的に数学的表現ができた。ここでは、ただ数学的表現が可能というだけではなくて、数学的表現しか可能ではないという事象がある。それが素粒子のミクロの状態である。ここでテンソル場とか行列とかそんな話は止めておく。いずれにせよアインシュタインの一般相対論(1915)はテンソル解析によっている。一般相対論も粒であり波であるなにものかの状態もテンソルでしか表現が可能ではない。

粒であるか波であるかは、光を操作する仕方に依存するのであって、「1個」の光を穴を通して光電盤に照射するとき、一個だけ光る。だから粒というマクロの表象を与えちゃう。「1個」の光を二つのスリットを通過させる(それが可能なのである)と、その先に干渉縞ができる。だから、波というマクロの表彰を与えちゃう。観測の仕方による。この二つの観測(実験)は、「一個」の光を「表」から見た時と「裏」から見たときの違いがある。「表」からみるとどうみても女だが、「裏」からみるとどうみても男であるというちがいだろうか?

粒と波の性質のどちらが普遍的な概念かというと、波の性質を現す「場」という概念である。

少し立ち入りすぎた。そこで、とにもかくにも粒であり波であるという矛盾した化け物を表現するには数学(テンソル解析)しかできない。そこにはなんら矛盾がない・・・と思ったら大間違いである。表現は可能であるが、「1個」の光の方程式を解こうとすると、解析的に主軸が無限大になってしまうのである。1/0というような項が方程式に現れることが避けられない。つまり、解けない。「1個」のという観測の仕方が問題なのだ。光にせよ、素粒子にせよ「1個」のという前提を置くことができないのである。それらは相互関係でしか現れない。そうすると、それを数学的にどう表現するか?その方程式をどう解くか、今のぼくには未知の世界である。

以上、の記述を読んで、ぼくの旧著『野麦峠に立つ経済学―あなたの本気が世界を変える―』(春風社 2003年5月)をお読みになった方の中には、いくつか思い当たる概念が散りばめられていることだろう。2003年のぼくは、相対論は初歩の初歩、量子力学は、その工学的帰結は知っていて利用していた(エレクトロニクス)が、その認識論上の問題点については、まったく無知だった。それでも、ぼくは、清水博さんの「生命関係論」の影響を受け、複雑系やカオスの理論の視点から、ほぼ同じようなことを、社会科学的・経済学的に論じていた。

教授時代というものは、人は研究ザンマイでおマンマが食えるという幸せな境遇とお考えかもしれないが、ぼくは―あくまでぼく個人のばあいは―、ゆっくり自分の過去の全構成を根底から考え直す機会が少ないものである。過去に書いたものに縛られてそこから抜け出せないものである。つまり、安穏たるなまけもの時代を送ることができた。しかし、ぼくは、幸い、教授時代に、「難病中の難病」の拡張型心筋症の告知を受けた。それが精神まで病ませた。人生全体が「御破算で願いましては」に突入した。ために、数え切れない入退院繰り返した。この時、ぼくはすべての政治(学内外)から引退して、自分の命のある限り、過去から形成してきたすべての研究の基礎をなした思想を根底から考え直した。行き着いたのは、非線形動学、複雑系の理論、カオスの理論である。生命系では、非ダーウィン主義、イリヤ・プリゴジンの「散逸構造の理論」であった。この基礎上で、『野麦峠に立つ経済学』に続いて、『経済をデザインする―いのちの育みと再生産―』(春風社 2006年3月)を著した。

さて、相対論のいっそうの奥を知り、かつ量子力学のエッセンスを知り得た2012年6月バンコクで、ぼくはどんなものを書くのだろうか?





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Last updated  2012.06.04 09:32:28
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