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「私はよろこんでいるべきでした。それなのに、日々歓喜がなかったのはどうしたわけでしょうか。そればかりではなくて、おそらく私はまだ自分というものをすてられないでいたからでしょう。宮村の精神の高さまで、自分をたかめることができなかったからでしょう。」 芹沢光治良『巴里に死す』p.248より
対象への憧れを、単なる憧れや、支配欲・独占欲の範囲を超えないもので終わらせるのではなく、そういった次元にいる自分自身を捨て、対象へ純粋に駆け上ろうとするとき、それは実に厳しい世界への第一歩となるのだろう。 しかし、対象へ近づきたいと願う心が本物であれば、その精神活動のすべては喜びへと変化するのかもしれない。 純粋に駆け上ることに喜びを感じないなら、まだ「自分を捨て切れてはいない」ということになるのだろうか。 自分を捨て、喜びを持って駆け上がろうとするときでも、その精神の果てしない高まりの段階の後から後から続くものとして、その高まりと供にある自然なふるまいや行動が身につくまでには、実にさまざまな困難と曹禺するに違いない。 しかしまだ私には「自分を捨てる」という意味が完全には、わからない。 そもそも、こうして一人で考えようとすることが、自分自身への未練なのだろうか。 また、私は偶像崇拝や個人崇拝に対して危険を感じないわけにはいかなので、対象とどのように距離をとるかという、自己探求の方法の難しさを体験し、乗り越えていくことは、熱中しやすい私の今後の課題のひとつであると思っている。 そういう意味では最初から対象を何かひとつに限定することは不可能に近くなると思うが。 先日、元オウム真理教、麻原被告の死刑判決が出た。 被害者の立場を考えるといたたまれない気持ちになる。 それでも、人が人の命を奪うという方法で罪を裁くことには疑問を感じる。 人が人の命を奪うという裁きが正当化されることの延長には、戦争の是認があるのではないか。 それぞれの国と国の法律などを正当化する信条や思想があって、それを脅かしにくる他国や為政者や国民を滅ぼしてもよいという考えのうちに、本質的なことを解決する道があるだろうか。 人が人の命を奪うことによって、罪を償う、あるいは罪を償わせることはできないのだという考えにこそ解決の道が開かれているのではないだろうか。 また疑問を持つことなく法に従い、行動をするのではなく、自分で考え判断する力を養うにはどうすればよいのか。 と、今の段階では思ったりしているが、もっと勉強しなくては、わからないことに今後も変わりはない。 先輩は言う。「思想も進化するから、古い本ばかりでなく、新しい本を読んでみるのもいいよ」。 長い時間を経て、変わり行くものと変わらないものを見つけよ、ということなのだろうか。 昨日の、「ビンラディン氏拘束」の速報は確実ではなかったのか。 情報に振り回されないようにしたいが、仮に氏を拘束した後、どのような処置が行われるかはガラス張りにして報道されるべきだろう。 そのためには、ビンラディン氏が自分の殻に閉じこもってしまい、何も喋らなくなるような環境を作ってしまわないようにしなければ、事実を知ることも難しいだろう。 はぁ~、こういうことを公開日記に書くのは勇気がいる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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