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カフェ・ヒラカワ店主軽薄

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2007.02.07
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カテゴリ:ヒラカワの日常
フランシス・フクヤマの
『アメリカの終わり』がおもしろい。
原題は、America at the Crossroads
だから、本来は「岐路に立つアメリカ」とでもするところ
だろうが、その岐路はどちらに行っても
アメリカの終わりに向かっているという点では
いいところを衝いているとも言える。

フクヤマといえば、クリントン政権の時代には
「対イラク強硬派」のネオコンの主流だったということである。
(よく知らなかったけど)
そいうえば、『歴史の終わり』では、
歴史過程は冷戦の終了で終止符を打ち、
あとはアメリカ流の自由民主主義を世界に広めることが歴史の
目的になるなんていう奇妙な論を展開していた(らしい。というのは
これも読んでいない。なんとなく、手にして中をのぞいたときに
ふーんと、買うのを止めてしまったと思う。)
尤も、フクヤマによればそれは読み間違いであって、
かれは自由への普遍的な希求というものが、アプリオリに
あるのではなく、それは近代化プロセスの副産物であると
言いたかったようである。つまり、近代化は歴史の必然として
自由民主主義を受け入れる余裕を持った「中産階級」を作り出すということだ。
この意味では、フクヤマの手法はヘーゲルや、マルクスのそれと
似通っている。(たぶん、本人もそれを意識していただろう)

もし、『歴史の終わり』の頃のかれが、フクヤマが誤読と
いった類のネオコン思想の持ち主だったとすれば、
今回の『アメリカの終わり』は、一種の転向宣言である。
しかしもし、フクヤマの言うようなヘーゲル的な読みで前作を読んだとすれば
『アメリカの終わり』は、その延長上にあるということになる。

俺が面白いと感じたのは、
かれの論をどのように解釈すべきかというところにあったのではない。
ネオコンの内部にいた人間にしか判らない、権力内部の
思考の型がこの本には大変よく描かれているということが
面白かったのである。

それはどういうことか。
ひと言で言えば思想が純化してゆくプロセスがわかるという意味である。
これじゃ、よけいわからないよね。
ひと言で言っちゃいけないのである。
ネオコンの思想は、フクヤマによれば、古くは
ニーチェ、ハイデガーにまで遡れるらしい。
というのは、ネオコンの始祖であるレオ・シュトラウスの思想は
西欧合理主義に対する根源的な批判であり、その結果としての「近代」
批判に向けられていた。
その経緯をフクヤマはこう書いている。

- シュトラウス自身はきわめて哲学的であり、自らの思想が政治に
利用されるのを避けようと苦心したが、彼の弟子や孫弟子や、そのまた
弟子たち・・・が、その教えを終わることのない探求の誘いではなく、
「教理」であると考えはじめてしまった

俺は、ネオコンに関してはアメリカの価値観を絶対視するが故に、
アメリカには世界を再構成したり、他国を改鋳する権利があると思い込んでいる
独善的なナショナリストだと思っていたので、この説明は意外であった。

しかし、この思索的なネオコンの思想は
政治過程に現れるや、ウィリアム・クリストルやロバート・ケーガンといった
ひとたちによって、再定義されることになる。
つまり、「民主主義を広めるためには他国への介入も辞さない」というものである。
そこにあるのは、思想の深化ではなく、単純化である。
よくても、純化というべきプロセスをたどって今日のような
ネオコン思想ができあがってくる。
出来上がった思想は、ネオコンの始祖が唱えた西欧合理主義への懐疑ということとは
正反対の、合理主義の行動化というまったく反対の地点に着地する。

ネオコンの主張が、稚拙なものであるとか、異常なものだと切り捨てるのは
簡単である。
しかし、思想というものを政治に使うときには、必ずこの単純化が起こる。
単純な政治家が使うからではなく、(アメリカの場合その側面もないではないが)
政治過程とは、中間的な様々な選択肢をそぎ落としながら、
ひとつの行動として表現される他はないからである。
政治過程では、いくつかある選択肢を同時に選択することはできない。
だから、手順が最重要の課題である。

今のネオコンの思想に、問題があるとすれば、
それはかれらのナショナリズムの強度にあるというよりは、
行為の単純さを担保するのは、手順であるということが考慮できていない
点にあると俺は思う。
民主主義の普及というものを考えるときに、
「問題は、どういう時間の枠内でそれを考えるか」@フクシマ といった
視点が鍵になるのだが、かれらにはただ、ASAP(=出来るだけ早く)という
ことしか頭に浮かばないのである。

俺はフクヤマという人の思想がどの程度普遍的で妥当
なものなのかどうかについては、よく判らないし、たぶん
相容れない考え方も多いだろうと思っている。
しかし、今回の著作におけるかれの公平かつ冷静な語り口には
妥当性があると思う。思想の肝はその語り口に現れるというならば、
彼の思想にもかなりの程度妥当性が付与されていると
思ってもよいのかも知れない。





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最終更新日  2007.02.07 16:59:55
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