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カフェ・ヒラカワ店主軽薄

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2007.03.21
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カテゴリ:ヒラカワの日常
■ 病の発症-不二家の場合
 
(前段省略)

ここにあるのは、経営者も、従業員も会社は必ず右肩上がりに成長し、利益を最大化しなければならないという幻想がつくる枠組みから、自由になれなかったという、共同体の呪縛である。かれらが、自社の不手際に対して適切に対応することができなかったのは、かれらに倫理観が欠如していたからではない。かれらの育てた共同体の倫理そのものが、社会の倫理とは倒立していたということである。この事件が明るみ出たとき、誰もが「いったい、不二家の経営陣は何と馬鹿なんだろう。期限切れの材料を使って浮かしたコストメリットと、それが発覚したときのリスクとの簡単な計算ができないなんて」と思ったことだろう。私も最初はそのように思った。ここにあるのは、長い間、同族経営という「甘さ」の中で育った、経営陣のリスクに対する感度の悪さであると。そして、現時点での報道(〇七年、一月)を見る限りでも、マスコミも評論かも概ねそのような評価を下している。同族経営という古い体質が、現在の不二家をつくってしまったと。
しかし、私はこの事件はそのような「質の悪い」経営者によって引き起こされた不祥事という解釈は、根本的に間違っていると思っている。そうではなくて、これこそが株式会社というシステムが持っている病が、発症したひとつの顕著な例であると考えるのである。事情は、雪印乳業の場合も、三菱自動車の場合も、パロマガス湯沸かし器の場合も、日興コーディアル証券の場合も同じである。雪印の場合には、時代の変化に伴う消費者の嗜好の変化、あるいは思考選択の多様化といったマーケットの構造変化によって、長期的な営業不振あるいは、伸び悩みといったことが背景にあったことは想像に難くない。賞味期限切れをおこしていたのは原材料ではなく、この会社の経営者たちの時代感覚であったのかもしれない。しかし、だからといって、時代遅れの経営者は必ず消費者をなめきった行動をとるとは限らない。

(中段略)

株式会社は、常に会社の存続という長期的な目的と、利益の最大化という短期的な目的という互いに矛盾する目的をどのように調整しながら意思決定するかという課題を持っている。もし、経営トップが本当の意味での中長期の視野を持ち、株主圧力に抗しても会社の存続と安定的な成長こそが最も重要なプライオリティであるという経営者目線に立っていれば、CSRやコンプライアンスというものは、利益確保のための長期的戦略であることを理解したに違いない。
それを許さなかったのは、ひとえに株主という会社の所有者であり、かつ短期の利益を確保することだけを目的としているものであることは言うまでもない。いや、会社の現在価値の最大化を使命と感じている経営者もまた、株主目線で会社を経営するようになってきている。そして、(直接の株主であるかどうかは別にして)株主とは誰あろう、「私たちの欲望」のことであるということに思い当たるひとは多くはない。欲望とは常に、今ここで実現されることを求めて増殖し続けるものであり、目の前に欲望充足の機会があれば誰にとってもそれを無視して通り過ぎてゆくことは難しいことだからだ。たまたま私は不祥事を起こした会社の株主ではなかったかもしれないが、もし株主としてこの会社と関わっていれば、配当の最大化に興味は無かったなどとは言えなかったはずである。
本稿は、述べたような会社の不祥事に対して、どのように対処すべきかというような処方を述べることを目的としているわけではない。しかし、株式会社というシステムにとって、活力を失うことなく倫理的であるという課題は、それ自体がひとつの自己矛盾なのである。そして、ここから出発しない限りは、対処療法的な処方は書けても、本質的な解決にはならないことだけは確からしく思えるのである。

■ 病の発症-ライブドアの場合

(前段略)

総じてマスコミの論調は、この事件には多くの被害者がおり、堀江氏には、その善意の株主を裏切った「道義的責任」に対しての謝罪がないということへの怒りを伝えたがっているように見えた。
「これは、まずいよ」というのが、私の最初の感想である。これでは、この事件の本質的なものは、何も見えてはこない。いや、そればかりか、この事件の本質は、安直な道義的な責任や、被害者への同情によって隠蔽されるだけではないか、と思ったのである。
この論調は、二つの点でまったく指南力を失っている。
ひとつは、株を買うという行為が、その動機が何であれ、あるいはそれを買ったものが誰であれ、それは自己責任で行うべきことがらであるということが看過されているということである。自己責任とは、例えば戦時下のイラクに入って捕虜になった人に対して投げかける言葉ではなく、こういうときに使う言葉である。株を買うという行為は、その値上がりを期待するということである。しかし、株は上がることもあれば、下がることもある。勿論、企業が虚偽の申告をして、騙されて株を買うということは、株主にとっては合意の外であるのは判っている。だからこそ、法律で規制しているのである。しかし、だとえ、株式市場の透明性が確保されていなくとも、株を買うということは株主のリスクであると考えるべきだろう。なぜなら、完全に透明な市場などは存在せず、株式市場にはリスクとリターンしかないことは最初から判っていたことである。働かずに利益を得るということの意味はそこにしかないからである。言葉は悪いが、八百長賭博も賭博であることに変わりは無い。もし、このようなリスクを避けたいと思うなら、最初から株式投資などやらなければよいのである。
株式投資をするということは、それが自己責任であるということを前提としているということに他ならない。ライブドアの株を買った人びとは善意の第三者ではない。このあやしげな会社に賭け金を置いて、それが増えて戻ることを期待したはずである。通りすがりのウインドウショッパーが、お気に入りの品物を見つけて買ったわけではない。
ハンディキャップを負う子どもの母は、どうして「夢は本当は金では買えない」ということを教えようとしなかったのかと、私なら思う。世のハンディとは、そのために合理的な利益を享受できないというような等価交換の価値観がつくる文脈において、ハンディなのであり、それを克服するとは、その文脈自体を変えることではなかったのかと思うのである。
 もう一つの錯誤は、堀江氏個人の道義的責任というもので、多くの人間が堀江氏は経営者としての道義的な責任を全うしていないと考えていることである。会社の経営者として、堀江氏は自社の現在価値を最大化するには、何をするべきかということを考えていたはずである。それが堀江氏にとっての会社経営の「倫理」であり、「道義」であったのだ。問われるべきは堀江氏個人の道義的な責任ではなく、会社というものにとっての道義とは何かということにあったはずである。
もし、かれに問題があるとすれば、それは現在価値を最大化するために法の抜け道を探そうとしたことではなく、現在価値の最大化だけしか考えていなかったということなのではないだろうか。堀江氏は何度も「株主利益の最大化」ということを言っていたはずである。それが、株主にとっても、堀江氏自身にとっても大きな利益につながるからである。
しかし、本来、会社価値と株主価値は別物である。多くの経営者は、株主価値を示す時価総額と会社価値が違うものであることを知っている。それをここで繰り返す必要はないだろう。ただ、株主資本主義の論理の中では、試算表に記載されない見えない価値を含む本来の会社価値ではなく、株式市場に表れてくる会社の現在の時価総額をこそ会社価値として考えようとする。いや、試算表に現れるのは純資産総額で、市場が決定する時価総額にこそ見えない価値が含まれているではないかという反論が在るかもしれない。しかし、時価総額に反映されているものは会社の本来価値とは呼べない。むしろ、純資産総額と時価総額の間にある価値の差額は、ケインズが美人投票のメタファーで説明したように、皆が株価が上がると判断しそうな株式に投資した結果に過ぎない。その結果時価総額経営は、「見えない資産」の蓄積よりは、「見た目の魅力」を上げることに流れて行く。その圧力を作っているのは、今回被害を受けたものも含めて株主の存在そのものである。株主とは、自分たちが経営者に対して十年後の会社の安定よりは、現在の時価総額を最大化をせよと圧力をかけている存在であることに、どこまで自覚的になれるのだろうか。だぶんそれは、無理だろう。さらに言えば、株主は、会社が道義的であるか、倫理的であるかということに関して、ほんとうは興味が無いというべきだと思う。それでも、会社は時価総額が上がることを望んでいる。私はこの株主と会社との間に存在する共犯関係を「病」と呼んだのである。
 (以下略)





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最終更新日  2007.03.21 13:44:29
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