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カフェ・ヒラカワ店主軽薄

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2007.04.18
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カテゴリ:ヒラカワの日常
先週末、NTT出版の牧野君と一緒に
上野鈴本演芸場に行った。
鈴本では珍しく、全席指定。
この下席は、花録が大ネタを披露している。
当日は、
市馬、たい平、正蔵といった芸達者が続き、
トリで花録が「子別れ」を通しで演じたのである。
一時間半の長丁場であったが、
ゆるみのない、
気合の入った「子別れ」であった。

最近テレビのレギュラーなどもやっていて
人気者になって、
どうなのかと思ったが、
緊張感のあるいい「子別れ」を聞かせてくれた。
勿論、この大ネタは錚々たる名人が演じており、
それぞれに、泣かせてくれる。
年若い花禄に、どれだけ熊五郎の「改悛」が描けるのか
すこし心配でもあった。
杞憂であったようである。

熊五郎は、一旦は女郎に狂い、身をもちくずすが
「改悛」して、女房の価値に目覚める。
女房の方も、熊五郎の気持ちをどこかで信じ続けている。
この噺のみそは、
熊五郎という人間が、ふらふら揺れながらも、
戻るべきところへ戻ってくるというところにある。
人間は変われるのだということである。
「芝浜」も同じ話型である。
それはまた、
人間はなかなか変われないということも暗示している。

唐突だが、
バージニアでの韓国人による銃乱射、長崎での市長暗殺の
犯人像というものを見ていて、
俺はこの落語の世界の意味の深さを思い出したのである。
「絶対にあってはならないことだ」と為政者も識者も語るが、
あってはならないことがおこるのがこの世界なのである。
かれらは、変われなかった人間である。
それが、呪詛であれ、思い込みであれ、
人間と言うものは自ら設定した思考の枠組みに捕囚されると
思考が硬直して、容易にそこから抜け出すことができない。
そこに、悲劇が待っていてもである。
かれらは、悲劇に吸い寄せられるようにして暴発する。
暴発による以外には、その枠組みを突破できるすべがないかのように。

このところ、
この枠組み思考による呪縛ということがずっと気になっていたのである。
ほとんど同じ環境に生活し、同じ言語を使い、同じ情報に囲まれていても、
一方は左に進路をとり、一方は右に進路をとる。
ひとりはテロリストになり、ひとりは人道主義者になる。
ひとりはモダニストになり、ひとりは復古主義者になる。
ひとりは護憲派になり、ひとりは改憲派になる。
ひとりは拝金主義者になり、ひとりは義理と人情の渡世を生きている。
かれらはお互いに非妥協的であり、憎みあう。
人はそれぞれだというのは、もっともらしいが、当たっていない。
どちらも、本当はひとりの人間の中にある可能性なのだと思うべきなのだ。
だから、どっちがどっちかということ自体はあまりたいしたことではない。
すくなくとも、そう思ってみることは必要なことだ。
問題があるとすれば、
「子別れ」や「芝浜」のように、
片方の端から、もう一方の端へと引き返すということができなくなる
ということであり、そこに思考のアポリアがあると俺は思う。

深刻なニュース画面を見ながら、
そんなことを考えたのである。





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最終更新日  2007.04.19 00:50:02
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