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古河市兵衛の足尾銅山は昭和30年代末まで順調な採掘が続いたが、鉱物資源の枯渇、銅品位と作業効率の低下による赤字のため、閉山の方針を昭和47年に出した。
そして昭和48年、発見から4半世紀にわたり82万トンの銅を生産して、労働者750人を整理し歴史に幕を閉じた。 田中正造の活躍によって足尾銅山鉱毒事件は国家的事件となり、明治30年には政府も古河市兵衛に対し鉱毒予防工事命令を出し、短期間に防毒工事を完了させなければ銅山の操業停止処分を課すという厳しいものだった。実行不可能と言われた工事に市兵衛は巨額の資金を投じて期限内に完了させたが、当時の知識や技術では鉱毒の除去はできなかった。 昭和32年、足尾荒廃地の復旧・緑化のため、林野庁、国交省、栃木県は、事業分担を決める。 林野庁は63年間に110億円、国交省は71年間に651億円、栃木県は51年間に190億円、総額は952億円を上回っている。しかし荒廃国有地の反運を緑化した段階にすぎず、復旧には何年かかるかわからない。また荒廃民有地の計画の80%を復旧できた段階である。 陰の部分が語られる足尾銅山だが、明るい話題としては世界文化遺産登録を目指す取り組みも進められている。 ----------------------------- 足尾銅山の鉱毒事件を追求した田中正造の葬儀には数万人が会葬したと言われている。民衆葬というにふさわしい葬儀であった。 田中正造は、常に自ら現地に赴き、自分の目で確かめ、徹底的に調査し、その上で改善を訴えるという姿勢が一貫していた。 「知識を広げるには実際に見聞して経験・知識を広げる事。見聞を広げるには新聞にかなうものはありません。」(田中正造は、下野新聞の編集人だった) 世をいとひそしりをいみて何かせん身をすててこそたのしかりけり 毒流すわるさやめずば我止まらず渡らせ利ねに血を流すとも 大雨にうたれたたかれ重荷挽くうしのあゆみのあとかたもなし 辛酸佳境に入る またそのうちに在りて楽しからずや 真の文明は山を荒らさす川を荒らさず村を破らず人を殺さざるべし ------------------------------------- 田畑の鉱毒土の除去作業は困難を極め、又効果もなかなかでなかった。。このあたりは、原発事故の除染という作業の困難さを想像させる。「真の文明は山を荒らさす川を荒らさず村を破らず人を殺さざるべし」という田中正造の言葉は心に響く。 明治から大正にかけて、銅は武器・貨幣・生活用具の材料として主要な輸出品であり、また日露戦争後はどうは電機工業、電力業に欠かせないものになった。基幹産業となり生産量を飛躍的に伸ばすが、それに伴い鉱毒の河川への流出や亜硫酸ガスによる煙害が拡大する。 別子銅山、日立銅山、小坂満天星、そして足尾銅山は四大鉱毒事件と呼ばれる。 昭和30年代から40年代にかけては、四大公害病が発生する。 熊本県の水俣病(新日本窒素肥料)。新潟県の新潟水俣病(昭和電工)。富山県のイタイイタイ病(三井金属工業)。三重県の四日市ぜんそく(石油コンビナート)。 田中正造の取り組みは、そういった公害反対運動の先駆けだった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013/12/19 06:19:46 PM
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