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松山の子規記念博物館で手に入れた「漱石・子規 往復書簡集」(和田茂樹・岩波文庫)を降りに触れて詠む進めていたのだが、ようやく読み終わった。
漱 1867年のまったく同年生まれの二人の偉人の、遠慮のない、そして互いに尊敬の念を抱きながらの22歳から子規が夭逝する35歳までの13年に及ぶ手紙のやりとりは、まことに木興味深い。 就職、友人、病気、仕事、そして、漱石の俳句に対する子規のコメントや評価などが克明に記されている。 この書簡集では、現存する手紙はすべて集めたそうで、すべての番号がついている。それによると漱石は89、子規は53であった。 子規は病気が進行していくにつれて手紙を書くのが億劫になってくるからだろう。 漱石の俳句を丹念に読んでいると、この文豪は俳句に集中していたら、俳人としても名を成しただろう。諧謔の味があって、なかなかいい俳句が多い、 それに対して、子規のつけるコメントが遠慮が無くて面白い。「「やもめの家独り宿かる夜寒かな」には、「人聞きのワルイ句也」とあり、「初心、平凡、イヤミ」「趣向も言葉もマヅイ」「巧ならんとして拙なり」、ひどいのになると「非俳句」というものまである。 子規の後継者である高浜虚子は漱石の俳句を「清新不凡ら漱石調ナルモノアリ敬服」と明治30年(1898年に語っている。 肝胆相照らした文豪と俳句革新者の友情の交歓はいい。 1899年、22歳のときに子規は子規と号し、漱石は漱石と初めて署名している。この漱石という名ももともとは子規の使っていた俳号の一つである。この年に2人そろって第一高等学校に入学し、寄席を通じて友だちになった。 -------------------------- 23歳そろって帝国大学に入学。松山に帰った子規の一高の卒業証書を漱石があずかっている。 漱石「僕毎年の夏休ミにハ非常の大望を抱く故いつでの日が足らずして十分の一も出来たためしなし。」 24歳には論争。 漱石「小生元来大兄を以て吾が朋友中一見識を有し、自己の定見に由って人生の航路に舵をとるものと信じ居をり候。その信じきりたる朋友が、、」 25歳。 漱石「かかる事(悪口)を気にしては一日も教師は務まらぬ訳と打捨をき候。その後講義の切れ目にて時間の鳴らぬ前無断に室外に飛び出候生徒ありし故、次の時間に大に譴責致候。、、、」 26歳。 漱石、帝大卒業。帝大大学院に入学。東京高等師範英語講師に就任。 子規、帝大を中退。 28歳。 漱石、松山中学の英語教師として赴任。年末に漱石は見合いをして中根鏡子と婚約。 雛に似た賦府もあらん初桜 裏返す縞のズボンや春暮るる 屑買に此髭売らん大晦日 親展の丈燃え上がる火鉢哉 なき母の湯たんぽやさめて十二年 「悪いのは遠慮なく評し給へ。その代わりいいのは少しほめ給へ。」 29歳。 漱石、虚子、森鴎外と初めて会う。 漱石は松山中学校を辞し熊本の第五高等学校講師に就任。漱石、結婚。 漱石「しかしながら習慣をかくと退歩の憂あり。故に送る」 三日雨四日梅咲く日誌かな 舟軽し水皺よって葦の角 衣替へて京より嫁を貰ひけり 反橋の小さく見ゆる芙蓉哉 日の入や五重の塔に残る秋 君が名や硯に書いては洗ひ消す こがらしや海に夕日を吹き落す 僧俗の差し向かひたる火桶哉 30歳。 漱石 「われ一転せば猿たらん、われ一転せば神たらん、、、背後に印する鞭の痕は一条ごとに秒と分と時と昼夜を刻して自覚の料となす。、、漱石子遂に猿に退化せんか将は神に昇進せんか。そもそもまた元の木阿弥か、、。 元日や吾新たなる願あり 菫程小さき人に生まれたしょ 漱石「実は教師は近頃厭になりをり候へども、、、」「教師をやめて単に文学的の生活を送り滝たきなり。換言すれば文学三昧にて消光したきなり。、、」 行く春を剃り落としたる眉青し 水涸れて城将降る雪の峰 子規「生きてゐる間は一日でも楽はしたく贅沢を尽し申候。、、回復の望なくして苦痛をうくるほど世に苦しきのは無之候。 子規「余命いくばくかある夜短し」 31歳。 漱石 温泉や水滑たに去年の垢 憂あり新酒の酔に托すべく 32歳。宇佐、耶馬渓を漱石が旅行し、俳句を詠む。 玉蘭と大雅と語る梅の花 子規「家庭の快楽多き者は音信稀なりといふ原則は、、、」 漱石 堅き梨にに武器刃物を添えてけり 朝寒の顔を揃へし机かな 子規「左に手に原稿用紙を取りて、物書くには原稿用紙の方を動かして行く、不都合な事、苦しい事、時間を要する事、、」 33歳。 6月漱石、文部省から2年間のイギリス留学を命ぜられる。 7月、漱石熊本を引き払い上京。 8月、漱石、寅彦を多もない子規を訪問、最後の会見となった。 子規「人に見せては困ル、二度読マレテハ困ル。、、、コレホド僕の愚痴ニシテ病気ダヨ。、、君に対して書面上に愚痴をこぼすのハこれ限りとしたいと思ふてtゐる。、、、決して人に見せてくれ玉ふな。、、」 34歳。 漱石イギリスより「妄りに過去に執着する勿れ、徒に将来に望を属する勿れ、満身の力をこめて現在に働けというのが乃公の主義なのである、、」 35歳。 9月子規永眠。 漱石 筒袖や秋の柩にしたがはず 手向くべき線香もなくて暮れの秋 ---------------------------------------- お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013/12/25 06:54:51 PM
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