|
カテゴリ:教育問題
またも不可解な事件が発生した。7人もの尊い犠牲者を出したが、こんな馬鹿げた無意味な事件で命を落すのは誠に残念で、本人や遺族の気持ちを考えると無性に腹も立つし、涙が止まらなかった。何時も思うのは、どうして?何が原因だろうと思い始めた。
そして、こんな凶行犯を捕まえた警察官の勇気を称賛したい。次の日の新聞で、詳しく分かったが、警察が警棒で戦った後、仕方無くピストルを出したのでナイフを捨てたとは、犯人は一体何を考えていたのだろう。 アメリカなら即警察に射殺されているのだが、一刻も早く安易にピストルを使用できるようにする事だと思う。警察の発砲事件が起きる度に、今回のピストルの使用は正当だったと警察側の報道が流される事が変なのである。 それにしても、どうせ死刑なのだから、ピストルに撃たれて死んだ方が犯人は気楽なのに、犯人がナイフを捨て捕まった事が理解できない。 どうしてこんな無意味な事件が、ここ20年ぐらいはドンドン発生するのだろうか。そう言えば少し前にも岡山駅のホームから関係無い人を付き落とし、列車に撥ねられ死んだ事件もあった。 私は事件を聞いて咄嗟に思ったのは、自分の子供は3人とも娘であり、孫は小さいし、こんな凶行犯人にならないという安堵感だったが、或る人は息子が東京に居るので被害者になる可能性があり心配だと言ってた。 人はそれぞれ感じ方が違うようで、私は自分の子供や孫が加害者になる可能性を心配したのである。そして何時ものように大胆に原因と対策を考えて見たい。 犯人の心の歪みが大きな原因なのだが、どうしてそれ程まで心がねじ曲がり、他人の痛みをみじんと感じない人間になってしまったのだろうか。 人は生きて行く以上、大なり小なりストレスを受けるのだが、そのストレスに耐えきれず、自己を抑えることが出来なくなる人が最近は増えたようだ。 ではどうして、そこまでキレるようになったのだろうか。このよう事件は戦前には皆無だった。戦後、しかもここ10数年で激増している。では戦前と戦後では、何がどう違っているのだろか。 心は健康と大きな関連があり、健康と食物は切っても切れない関係にある。そして日本人は昔から穀物と野菜と少々の魚だけで生きて来たが、戦後は動物性タンパクが多くなった。肉食動物は草食動物より、平均的に闘争心が強いから、どうも肉食が結構大きな原因を作っている可能性を感じる。これが遠因の1つかも知れない。 そして急激な肉食への変化も、キレる可能性を大きくしていると指摘したい。何故なら数百年も掛けて段々と食事の内容が変化するのなら、数十代に渡っての変化だから、遺伝子も環境に応じて段々と遺伝され変わるが、戦後の2世代や3世代での、余りにも急激な食の変化は、大きなストレスを体に押し付けていると推定できる。それが心にも影響するのでなかろうか。 また核家族化で、大家族の中の一人として生活をする事もなく、自分の部屋を持ち、自分を中心とした家族だけの生活であり、他人を思いやる必要が無いのも大きな理由の1つだろうと思う。 それにしても、食事の影響や、家族関係は漠然としたモノであり、直接的な一番大きな理由は何だろうか。私はやっぱり戦後教育と社会環境だと思えてならない。 先ず教育だが、戦前の儒学を基調とした教育を180度転換し、先の戦争は全て日本が悪かったのだというアメリカに準じた教育に、アメリカの命令で変えてしまったが、これが間違っていたのではなかろか。 だからアメリカもこのような訳の分からない事件が日本の数十倍の確率で発生している。つまり最近の日本の犯罪は小アメリカになりつつあるように感じてならない。アメリカの基準の教育を戦後60年以上遣って来たのだから、当然そうなるように思う。 何でも、100%悪いモノは無いし、100%良いモノもない。戦前の教育で良かったモノは復活させ継続した方が良いのではなかろうか。戦前の教育が全て良かったと言っているのではない。取捨選択して、良いモノは復活ささせるべきだと言いたいのである。 儒教に貫かれている孝とか忠とか義とか仁というと、革新系の人は即国粋主義と決め付け、そんな教育を再開するとタチマチ戦争に成ると飛躍するが、その意見そのものが間違いではなかろうか。 儒学がそんなに悪かったのだろうか。戦前の教育は全て間違いだったと決め付けたアメリカの教育そのものが間違いだったのはなかろうか。 だからアメリカに似た禽獣のような事件がドンドン発生する。親が子を、子が親を殺す日本は余りにも酷くなり過ぎている。 そして社会環境を考察すると、戦後は、平等ばかり大きく強調して言うが、歳と共にその人の能力が出るものだから、所得や地位の差が歳と共に段々と顕在化し、その度にストレスが残り溜まるように感じる。 また最近は格差の拡大が問題だと声を大にして言う。だけど世界中の中で、日本ほど格差の無い社会は無いのである。 アメリカンドリームというのも、天文学的な格差があるから、ドリームなのであり、日本の格差はメクジラを立てて責める程でも無い。 昔が良かったとは言わないが、若者の50%が大学に行く事自体が、大きな間違いで、これが厳しいストレスを一生ジワジワと増殖させていると思えてならない。 大学もピンキリで、皆同じ平等な大学だというのがそもそも間違っているのではなかろうか。 敗者復活の制度は必要だが、社会には或る程度は階級がある方が安定し気楽な気がする。今の日本にはハッキリした階級は無いが、実際には親の能力から、ある程度は階級が決まっている。 例えば変な例だが、今の東大生の両親は、恐らく90数%以上が一流大学出だろうと想像する。高度成長後なのに、両親が義務教育しか受けられず、その子供が、一流大学に合格するのは、ホントに稀な例だろうと思う。 そのような階級が暗黙の内に社会に潜在しているのに、それに目を瞑り、誰もが平等だと言うから大勢の人が一生ストレスに悩むのではなかろうか。 犯人は中学までは勉強も良く出来た子供だったそうだが、それは親の出来なかった期待と夢を子供に移入し、親が教え込んだからであり、高校になると成績は極端に落ちたそうである。 トンビが鷹を産む可能性は非常に少ないのに、親の果たせなかった事を無理じいして勉強を手伝っても、それは中学までであり、高校の段階になると親から貰った遺伝子以上の事は出来ないものである。 そんな子供にも一流大学まで狙わせ、それでも結局短大にしか受からず、そして案の定マトモナ就職もできず、派遣社員にしかなれなかった。 始めから青森の進学校などに行かせず、職人の道とか、近所の小さな会社の1従業員の道を歩んでいたら、厳しいコンプレックスなど感じずに、こんな事件も起こさず、一生平穏に暮らせただろう。 つまり、戦後は余りにも平等な社会が出現し、その上殆どの家庭が経済的にある程度以上の豊さになり、大抵の子供が高等教育を受けることが可能となった。 しかし、体に備わった潜在能力が無いのに、そのように平等だと言う教育を受けると、厳しいストレスというか、劣等感に一生苛まされるのである。それに耐えきれなかったのでなかろうか。 つまり、或る程度の階級制度が社会や家庭に温存される方が、子供の内から、その子の備わった能力内で生きて行けるし、高望みをしないから、激しいストレスも受けないし、その子の能力内で可能性を一生追求し、有意義な人生を歩める。 良い別として、ヨーロッパでは今でも人口の5%ぐらいしか大学に行かないのに、日本では人口の半分が大学に行くのがオカシイと思いませんか。 日本人はそんなに頭が良いのだろうか。これが結局は本人に大きなストレスを一生与え続けていると、私は推定しております。 また江戸時代の庶民は結構幸せだったようで、あれだけ階級が固定化されており、貧しい生活なのに精神的に幸せだったのは、自分との比較は同じ階級内でしか比較しなかったからではなかろうか。 日本では昔から忠が孝より上だと言う社会通念があったそうで「忠ならんと欲すれば孝ならず、、、」と忠と孝の間で悩むことがあったそうだが、中国では孝が上で、そんな忠と孝の間で悩む事は無いそうである。 忠とは今風に言えば、社長と従業員の間柄だが、法的には平等となっている。しかし、現実の社会では、そんな事あり得ない。平等だというから世の中が変になる。その会社を退職すれば確かに少々は平等になるかも知れないが、社長と従業員の関係でありながら平等である筈が無い。 それを、労働組合などで、平等なような言動をし、そのように要求をするから、世の中ヤヤコシクなる。労働の権利とかを大声で言うから、益々ギスギスした社会を醸し出す。 まあそれにしても、今から忠を教える事は時代にそぐわないだろうが、親とか先祖を敬う「孝」とか、愛情の総称である「仁」は、他人に対する思い遣りであり、特に今回の事件ではこの「仁」の無さが、根本原因なのである。 他人に対する愛情が希薄になった現代には、非常に大切な要素で、需学を復活させ、その中でも仁とかと義を多く含めて教育して欲しいものである。 そしてマスコミでは、愚にもならないダガーナイフが悪いとか、インターネットの書き込みから、犯罪の防止が可能ではとか、歩行者天国の廃止とかが、槍玉にあがっているが、余りのも枝葉末節の事で、あほらしくて聞いておれない。 そして面白いことに今回の秋葉原の通り魔事件で、私の意見と全く違う意見が高知新聞の投書欄に掲載された。 参考の為に掲載致します。私の意見と彼の意見、どっちがより正しいのか、それぞれが考えて欲しいものです。 秋葉原事件で思う 連日告げられる「秋葉原事件」の新聞記事や、テレビニュースを見聞きしながら、病む現代社会の深刻な兆候として、憂慮に堪えない思いになった。 格差社会の広がりは、今日の日本社会が労働者の無権利状態にあることを示し、憲法28条の「労働基本権」すら権力に侵されている現実だと言える。 労働者が、生活権すら保証されないが故に自暴自棄的になるのも、こうした人間無視の社会体制のひろがりのもたらす罪科と言えよう。 「社会への恨み」などと、特異性ばかりに目をとられるのではなく、生産関係の発展にふさわしい「労働条件」の権利保障がなされる施策こそ急務だと思う。 少なくとも、働くものが己の生活維持(自身の家族の)が保証されるものでなければならないはずだ。 投機のあおりで、急騰するガソリンの例を含めて、根源にある「収奪、搾取」の規制こそ急がれるべきである。 「戦う労働組合」を敵視し、懐柔と分裂を図った結果が、今日の社会問題の主因となっているのではないか。 小林多喜二の「蟹工船」の復刊本が大売れしていることの背景に、労働者の権利回復の伏線があるのかとも感じてみたりする。 酒井 保 84歳 このような投書を高知新聞の投書担当者が選んで掲載したと言うことは、その選者も、さもありなんと感じるからかも知れず、果たして労働者の権利とか、平等を今以上に進めると、このような事件は少なくなるのだろうか。 そして世の中は、彼の言う方向に向かって進んでいるようであり、心配である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[教育問題] カテゴリの最新記事
|