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テーマ:最近観た映画。(40056)
カテゴリ:洋画
2019年に公開された「ジョーカー」の続編。 主人公のアーサー・フレック/ジョーカーをホアキン・フェニックスが再演。 歌手のレディー・ガガが、アーサーに恋愛感情を抱く女性ハーレイ・“リー”・クインゼルとして出演。 監督は前作と同じくトッド・フィリップス。 原題は「JOKER: Folie à Deux」。 副題の「Folie à Deux」は、フランス語で「二人狂い」を意味し、一人の妄想がもう一人に感染し、複数人で同じ妄想を共有する精神障害を指す。 前作は日米双方でR指定になったが、本作は米ではR指定になったものの日本ではPG12指定になっている。 粗筋 アーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)は、2年前に犯した数々の罪(前作:ジョーカー)によりアーカム州立病院に収容され、裁判を待つ身となっていた。 彼の弁護人であるメアリーアン・スチュワート( キャサリン・キーナー)は、アーサーは多重人格者で、罪を犯したのはアーサーではなくジョーカーという別の人格が犯したものだ、という主張で無罪を勝ち取ろうとしていた。 一方、新任地方検事のハービー・デント( ハリー・ローティー)は、アーサーは多重人格者なんかではなく、責任能力があるので、死刑を求刑する、と主張していた。 病院の音楽セラピーで、アーサーはハーレイ・“リー”・クインゼル(レディー・ガガ)と出会う。 リーは、アーサーと同じ地区で生まれ、父親から暴力を振るわれながら育ったという。その父親は交通事故で死んでしまったが、今度は母親から暴力を振るわれたので、腹いせに自宅に放火。その結果母親にこの病院に収容されてしまった、と。リーは、アーサーの犯行を描いたテレビドラマを観ており、ジョーカーが如何に素晴らしいかも語った。 数日後、音楽セラピーの一環として、ミュージカル映画が病院内で上映される。 リーは、隙を見て室内に放火。その混乱に乗じてリーとアーサーは脱走を試みるが失敗。アーサーは独房に入れられてしまう。 独房に、リーが姿を現す。看守を買収出来た、と。彼女は、退院を余儀無くされた、と彼に告げる。アーサーと一緒に居させる事は出来ない、という病院側の判断によるものだった。リーは、裁判を傍聴する、と約束した上で、アーサーに身を任せる。 それから数日後、テレビ番組の取材を受けたアーサーは、テレビを通じてリーに向けて愛の歌を披露。その放送を観たリーは、ますます彼に夢中になった。 裁判を迎えたアーサーは、メアリーアンと共に出廷。 リーは約束通り姿を現し、傍聴席に腰を下ろすが、アーサーから距離のある席だった。二人が近付かない様、メアリーアンが手配したのだ。 裁判の休憩中、アーサーはその不満をメアリーアンにぶつける。 メアリーアンは指摘する。貴方はあの女の事を何も知らない、と。リーは実は精神医学生で、裕福な地域に生まれ育ち、父親は医師で、健在である。また、彼女が自宅に放火した事実も無い。更に病院には自ら入院していて、母親によって収容された、というのも噓。退院も自らの意思によるものだった、と。 困惑したアーサーは、面会に来たリーに、生い立ちや入退院の話は嘘だったのか、と問いただす。リーは全て噓だった、とあっさりと認める。貴方に近付きたいが為の嘘だった、と。彼女は妊娠していると告げ、彼が住んでいたアパートに引っ越した、とも告げる。二人で一緒にそこに住みたい、と。 アーサーは、リーと自分は相思相愛の関係にある、と確信した。 翌日、メアリーアンはあくまでもアーサーとジョーカーは別人格だという主張で裁判を進めようとするが、アーサーはそれに不満を爆発させ、彼女を解任して自分自身で弁護する、と裁判中に宣言してしまう。 アーサーは、ジョーカーの格好で裁判に出廷し、自分自身を弁護し始めた。 証人として、アーサーの元隣人ソフィーと、元同僚ゲイリー・パドルズ(リー・ギル)が招聘される。ソフィーは、アーサーは彼女と恋愛関係にあると妄想していたらしいと証言。ゲイリーは、アーサーが別の同僚を目の前で殺した、と証言する。 メアリーアンがいたらこの二人の証人によりアーサーの多重人格障害が立証される筈だったが、裁判について何の知識も無いアーサーは折角の証人を前に何の弁論も出来ない。 アーサーは証人とは無関係な熱弁でアーカム州立病院の看守らを罵倒する事に終始する。 病院に再び収容されたアーサーは、待ち構えていた看守らにより暴行され、独房に放り込まれる。 独房で、アーサーは看守らと対峙する別の受刑者とのやり取りを耳にする。その受刑者は何卒アーサーに好意を持っていた者だったが、彼も看守らに暴行され、死んでしまう。アーサーはそのやり取りを聞くだけしか出来なかった。 最終弁論の場で、アーサーはジョーカーの姿ではなく、素顔で出廷。ジョーカーは別の人格なんかではなく、周りが勝手にそう思っているだけで、世間は自分は5人を殺害したと思っているが実は母親も殺しているので6人を殺害している、と認める。 リーは、ジョーカーが否定された事に激怒し、判決の前に傍聴席を後にしてしまう。 判決で、陪審員の代表者が、アーサーが犯した罪一つ一つについて有罪とする判決文を読み始める。 その最中に、自動車に仕掛けられた爆弾が裁判所の外で起爆。 爆破により裁判所の壁に穴が開いてしまう。 混乱の中、アーサーは外に脱出する。 爆破の衝撃で意識が朦朧としていたアーサーは、ジョーカーの格好をした「ジョーカー信者」と出会う。そのジョーカー信者に促されるまま車に乗り込みその場から逃れる。 が、ジョーカー信者から一方的に崇拝されるのを聞いていて恐ろしくなったアーサーは、車から脱出し、ゴッサムシティを彷徨う。 以前住んでいたアパートの側の階段で、アーサーはリーと再会する。 アーサーは、今ならどこにでも行ける、とリーに告げるが、彼女はあくまでもジョーカーに恋していたのであり、ジョーカーである事を否定した惨めなアーサーには何の興味も無かった。 リーは、アーサーを置いて去る。 アーサーは、その場に到着した警察に連行され、病院に戻される。 数日後、アーサーは面会者が来たと看守に告げられる。面会室に向かう途中で、別の受刑者に呼び止められる。その受刑者は、アーサーにジョークを聞いてほしいと切り出す。アーサーがそれに応じて話を聞いていると、相手はいきなり刃物を出してアーサーの腹部を何度も刺す。 アーサーは特に誰にも看取られる事無く息を引き取った。 感想 本作は、2019年に公開された映画の続編。 第一作が誰もが驚くヒット作となったので、急遽続編制作がOKされ、紆余曲折を経て本作の公開に至った。 ただ、流石に2匹目のドジョウはいなかったらしく、本作は興行的には成功しなかった、という事になっている。 興行的にイマイチだっただけでなく、映画批評家らの多くが前作に遠く及ばない失敗作と酷評している。 冒頭のアニメや、途中に挿入されるミュージカルの要素がストーリーの進行を妨げてしまい、ダークヒーロー映画なのか、ミュージカル映画なのか分からない、と。 個人的にはアーサー/ジョーカーの妄想というか狂気を表現する方法として、アニメやミュージカルのシーンは特に違和感がある様には思えなかった。 それらを全て排除してストーリーが進んでいたら、ただただ重く暗いものになっていたと思われる。 第一作は、アーサーが今後如何にしてバットマンの宿敵に成長していくのだろうか、という期待感を多少なり残して終わっていた。 が、本作ではアーサーはバットマンの宿敵ジョーカーとは全くの別人で、ひたすら無能で無力で呆気なく死んでしまう小物犯罪者に過ぎなかった、という事実が明らかにされてしまう。 この結末により、鑑賞者や批評家らまでもがアーサーというキャラに興味を失ってしまったかの様。 アーサーは作中で社会から見捨てられるが、銀幕を離れて現実社会からも見捨てられてしまった形になったのは皮肉である。 自分は、第一作を観た時点で、アーサー・フレックがあまりにも無能で無力な人物で、作中に登場するブルース・ウェイン(後のバットマン)との年齢差があり過ぎるので、バットマンの宿敵となる天才的犯罪者ジョーカーと、アーサー・フレックは別人だろう、と思っていた。 アーサー・フレックは、あくまでも「ジョーカー」という種類の犯罪者を生み出した人物に過ぎない、と(その観点からすると、バットマンの前に現れるジョーカーはアーサー・フレックの模倣犯で、オリジナリティに欠ける存在になってしまうけど)。 本作は、自分の推測をそっくりそのまま裏付ける形となり、納得出来る内容になっている。 ここまで自分の推測に沿った映画になっているのもどうかね、と思ってしまうけれども。 ミュージカルの要素も取り入れている事もあってか、リーの役にキャスティングされたのはレディー・ガガ。 最近は女優業にも力を入れているが、本職は歌手なので、歌唱力は抜群。 リーという、リーという、矛盾だらけの役を説得力ある形で演じ切っていた。 主人公アーサーを演じるホアキン・フェニックスも、作中で歌を披露。 歌手が本職ではないので物凄く上手い、という訳ではないが、逆にそれがアーサーらしく映った。 アーサーは、無力さの故に破滅する、という結末に至っているが、無能振りによって自滅している感が強い。 一番まずかったのは突然現れたリーに思いを寄せ過ぎて、誠意を持って彼と向き合っていた弁護士を解任してしまった事だろう。 実況されている裁判で世間が求めるジョーカーになり切ろうと必死になるが、裁判所を出て病院に収容されるとただの中年男性でしかない事実を連日突き付けられ、苦悩する。 世間では5人(実際には6人)を殺害した人物は畏怖や崇拝の目で見られるが、病院の看守らからすればその程度の人物は年中見ているので特別な存在ではない。一般市民なら絶対手を出そうと思わない危険人物であっても、百戦錬磨の看守らは丸腰にさせた上で複数で相手にするのでいくらでも手を出せてしまう。 世間の見られ方と病院での扱われ方のギャップに堪えられなくなり、自分はジョーカーなんかではない、と認めざるを得ない羽目に。 アーサーがもう少し冷静になっていれば、自由を勝ち取ってしまう可能性だってあったのに、自らその道を閉ざしてしまった。その短絡的で身勝手な行動こそアーサーなのだ、という見方も出来るが。 改めて思い返すと、第一作と同様、本作がどこまで現実で、どこまでがアーサーの妄想だったのか分からなくなってくる。 精神病院で軽度の精神病患者(リー)と、重罪を犯した精神病患者(アーサー)が接触する機会を与えられる、というのは有り得ない。 看守が許可を与えた、という事になっているが、そういうものではないだろう。 リーの放火により二人は脱走を試みるがあっさりと捕まってしまい、アーサーは独房に放り込まれる。その直後にリーがその独房に姿を現せるのはおかしい。リーは看守を買収出来たというが、放火して脱走を試みた者が看守をどう買収するのか。 アーサーの犯行はテレビドラマ化され、リーはそれを観て彼に興味を持った、という事になっているが、作中ではそのテレビドラマのシーンは一切登場しない。 リーは、アーサーが病院を移動させられていた時に一瞬見掛けただけで、その後のリーとの接触もテレビドラマ化も全てアーサーの妄想だった、というのも有り得る。 リーに見捨てられたアーサーは、警察に捕まり、病院に逆戻り、という事になっているが、殺人罪で有罪判決を受けた後に脱走した者が何事も無かったかのように同じ病院に収容される、というのも疑問。監獄に収監されるのが普通だろう。 ラストで、アーサーは面会室に向かう最中に別の受刑者に刺されて死ぬが、そもそもリーに見捨てられ、弁護士も解任していて、身寄りのいないアーサーに面会する者なんているのか。作中では誰が面会に来たのか明らかにされないまま終わっている。 アーサーを刺した受刑者こそ後にバットマンの宿敵となるジョーカーである、と臭わせるシーンになっているが、本当にそうなのかは不明。 やり方によっては第三作の制作も可能な様な終わり方になっているが、興行的に失敗している以上、本作で打ち止めにした方が良いと思われる。 謎はいくつか残るが、少なくともアーサー・フレックはバットマンと対峙するジョーカーではありませんでした、という結末で問題無いし。 原題は「JOKER: Folie à Deux」で、邦題はそれを単にカタカナ表記にしたものになっている。 副題の「Folie à Deux」はフランス語で、直訳すると「二人狂い」になる。一人の妄想がもう一人に感染して複数人で同じ妄想を共有する精神障害を指すという。アメリカ人にとっては馴染みの無い専門用語。そもそもフランス語自体、アメリカではあまり馴染みが無い。 シンプルに「JOKER 2」にせず、小洒落た副題を付けてしまった事も、観客から敬遠された原因の一つと思われる。 前作は批評的にも興行的にもヒットしたが、本作は批評的にも興行的にもヒットせず。 アーサー・フレックのジョーカーをバットマンと直接結び付けなかったのが許されなかったらしい。 自分は、前作は悪くは無いが絶賛する程のものではないと思っていたが、本作で伏線をほぼ回収してきちんと終わらせた、本作あってこその前作だ、という見方をしており、世間とは真逆の感想。 何故なのかね。 前作を観た観客らの「アーサーは如何にしてバットマンの宿敵ジョーカーと成長していくのか」という期待を完全に裏切る続編を制作したトッド・フィリップスを、映画監督クエンティン・タランティーノは「DCオタクらの鼻を明かした彼こそジョーカーだ」と大絶賛。 自分はそこまでトッド・フィリップスを称賛したくはないが、観客の大半の期待を裏切ってみせたのは事実。 よくよく考えてみると、アーサーは「ジョーカー現象」というレガシーを残してさっさと死ぬ事により、最終的にはバットマンの宿敵となるジョーカーをも上回るジョーカーになる事に成功したのかも知れない。 「DCオタクらはバットマンの目の前に現れるジョーカーこそ本物だと信じて疑っていないが、オリジナルは俺。バットマンと戦う奴は俺より要領が良いが、結局はただの模倣さ」と。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.10.30 17:18:36
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