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「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

ほしのきらり。

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2011.04.12
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カテゴリ:スロベニア
『スロベニア共和国』首都リュブリャナの基礎知識を辞書ウィキュペディアさまで調べてみました。

リュブリャナ

英語 Ljubljana

ドイツ語 Laibach

イタリア語 Lubiana

ラテン語 Emona

スロベニア共和国の首都

11の特別市の1つにもなっている

東欧有数の世界都市

スロベニア国土の中央で

アルプス山脈と地中海の中間に位置し

サヴァ川へとつながるリュブリャニツァ川の河口にある

北緯46度3分、東経14度30分

日本の地図でも第一次世界大戦以前の古い地図では

スロベニア語読みのリュブリャナではなく

ドイツ語読みのライバッハで表示しているものもある

海抜298m

気温変化は

1月の3.4 度~7月の21.9 度の間である

平均年間雨量は1350mm

国土の中央に位置し

ザグレブから140km

ヴェネツィアから250km

ウイーンから350km、

ブダペストからは400kmである。

クラス地方とジュリアン・アルプスの間に位置し

リュブリャニツァ川の作り出す峡谷部にある

標高はおよそ300m



     【歴史】            竜(ズマイ)は下向き矢印

     CIMG4220.jpg    
                       リュブリャナのシンボル

     紀元15年にローマ帝国の街エモナ(Emona)が設立された。エモナは、

     約500年間発展したが

     フン族に破壊された。

     6世紀ごろに

     スラブ民族のスロベニア人がスロベニアに定着して、

     1144年に

     リュブリャナ城が初めて言及される。

     そして現在使われている地名で記述されたのは、

     1144年(ドイツ語:Laibach)と

     1146年(Luwigana)が最初だった。

     1335年に

     リュブリャナは、ハプスブルク家の支配下に入った。

     1461年には司教管区になり、

     中世にはスロベニア文化の中心地として発展した。

     ハプスブルク家の支配はナポレオン戦争時に一時的に中断した。

     1809年から1813年の間、

     リュブリャナはフランス第一帝政イリュリア州の首都だった。

     1821年にリュブリャナはライバッハ会議の主催となった。

     オーストリアの支配下中は、リュブリャナはカルニオラ地方の首都だった。

     第一次世界大戦後の1918年のオーストリア・ハンガリー帝国崩壊で、

     リュブリャナは

     セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国の一部となり

     スロベニア地方の中心都市となった。

     1929年にユーゴスラビア王国の行政区分が再編された際には、

     現在のスロベニアとほぼ同じ領域を占める

     ドラヴァ州(Drava Banovina)の州都となった。

     第二次世界大戦の1941年4月にリュブリャナはイタリアに占領された。

     リュブリャナ中心市街の外部で起こったスロベニア人の抵抗運動が強かったため

     1942年2月23日にイタリア軍は32kmの有刺鉄線で

     リュブリャナ中心市街を完全に囲ってしまった。

     それはヨーロッパで最も大きい戦時下キャンプであり、

     リュブリャナ中心市街へ入るには、

     イタリア軍の厳重なチェックポイントを通らなければならなかった。

     第二次世界大戦後、

     リュブリャナは

     ユーゴスラビア連邦人民共和国のスロベニア人民共和国の首都になった。

     そして1955年に

     ヨシップ・ブロズ・チトーは、

     第二次世界大戦時の抵抗運動の功績を称えて

     リュブリャナ市に英雄都市称号を与えた。

     それはユーゴスラビアで最初の英雄都市称号だった。

     1980年5月4日、チトーはリュブリャナの病院で亡くなった。

     1991年にユーゴスラビア軍との十日間戦争でスロベニアが独立を勝ち取り

     リュブリャナはスロベニアの首都になった。


    【建築】

    リュブリャナはたびたび地震で荒廃した。

    1511年の大地震後、

    リュブリャナ市街はルネッサンス様式で再建された。

    そして

    1895年の壊滅的な大地震後は

    新古典主義と脱退(アール・ヌーヴォー)様式で再建された。

    このように

    リュブリャナの建築物は様々な様式の混合である。

    リュブリャナ市街の象徴の1つである

    リュブリャナ城は現在も再建中である。

    また、

    旧市街と新市街を結びつける三本橋は

    ヨジェ・プレチニックが設計した。

    そして彼は新市街の建物のいくつかも設計した。
    CIMG4210.jpg
               リュブリャナ大聖堂

    リュブリャナ中心地:三本橋(トロモストウイエ)とフランシスコ教会
    CIMG4165.jpg

    丘にリュブリャナ城がある下向き矢印
    CIMG4139.jpg
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最終更新日  2011.04.12 09:09:21
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