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テーマ:もう一つのお遍路日記(91)
カテゴリ:もう一つのお遍路日記
2008年9月2日。お遍路14日目。
31番竹林寺を打ち終え五台山の南斜面を駆け下りた。この丘には幕末には料亭があったようで、龍馬も何度も登ったらしい。そのためか古い山道は石畳が敷かれておりきちんと整備されていた。 あっという間に下り終えると下田川というそこそこ大きな川を渡る。 この川も高知港、浦戸湾に流れ込む川の一つ。 浦戸湾には大小7つの川が流れ込んでいる。その内もっとも有名なのは鏡川で、幕末の高知城の城下町を東西に流れている。竜馬の生家もこの川から300mほどしか離れていない。 高知平野を東西に流れる下田川を渡り川沿いの防波堤の上を東へ1kmほどのんびりと歩く。川なのに潮のにおいが香っていた。浦戸湾まで500mほどだったのだ。 遍路道はそこから下田川の堤防を外れ田んぼの中に入っていく。歩き遍路用の目印を追いかけていると途中で工事の看板が出ており道を遮っていた。 仕方なく矢印に従って迂回すると遍路道が分からなくなり少し道に迷った。だが元々が単純な道なのですぐに遍路道を見つけた。 そこから南へ1kmほど。武市半平太(たけちはんぺいた)の生家がある。 武市は幕末土佐の勤王(或いは尊王)主義の第一人者である。そして坂本龍馬とは親友の仲であった。 だが、皮肉なことに後に龍馬によって武市と同じ尊王主義に考えを改めることになる後藤象二郎により拷問され、切腹させられてしまう。 後藤象二郎はその当時まだ尊王主義を弾圧する旧態依然の土佐藩の立場にいたのだ。 武市は土佐勤王党で武力倒幕を強硬な姿勢で推し進めた。龍馬は後藤象二郎の立場を考えながら話し合いにより思想の転換を求めた。 その違いは一つ。龍馬の幼いころに無くしたという母から受け継いだ思想だと私は思う。 憎しみからは、何も生まれない まぁまぁかな、と思ったら応援よろしこ。 一回ずつ、ポチポチっと↓↓↓ なーんて。 「ねはんの里」ホームページへ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.11.04 00:26:10
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