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2年になります。
そのとき、そこにいなかったから、どこまで逃げればよいか、わからなかったとは、思います。 宮城沖地震、というのが、昭和50年代のいつだったか、ありました。 そのとき、三陸町の大学にいました。 住まいは、沖合から一番の高台(というか、遠い)国道45号線沿い 目の前を、この4月に開通する南三陸リアス線(当時はまだ国鉄?)が走っていて。越喜来を知っている方なら、警察とバス停とコンビニの先さあ。 大学は、岬の先の方にあって、そこから、崎浜に下ってから、下宿先の浦浜に行くルートと、林道を通ってショートカットして、行くルートがあります。 ちょうど、そのとき、私たち(同じ宿にいた、モトカノと数人の男と一緒だったと)は、林道を下っていました。運転手は、私。 映画のように、いきなり、地面がゆがんで、スリップをしていないのに、大きくハンドルをとられて、しばらく下りると、ヘビが道を横切っていて(長いのです、道幅いっぱい)それをひいてしまって。 一回目は、なにか、わからなかった。 あとで、小さな土砂崩れですが、林道が通行できなくなったことを知りましたが。 次に起きたのが本震か、は、わからないですが、宿に戻ったとたんに、山が鳴る、というより、うなる 電線は、ごおー、と音をなし、大家さんちの裏山が、くずれはじめる 窓ガラスは、小刻みな揺れから、大きくなると、ぴーん、と、張ったような、異様な振動(割れる寸前)と音をだし、先に帰った仲間たちが飛び出してくる。 そのとき、すでに、町中は、警報が鳴り響いている。 しばらく、宿の前の駐車場に、座り込むしかなかった。 そのうち、船が、続々と、沖合に出ていく様子が見て取れた。 幸いに、宮城沖の、地震では、その程度で、津波も大きなものはなかった。 しかし、後から聞くと、驚いたのは学生だけ。 地元の人は、おどろき、あわてるな、という雰囲気だった。 町道のはるか上、に、過去の津波が、ここまで来た、という、背の高さよりも高い標識がたくさんある。 しかし、港には、ものすごい高さの防潮堤ができているから、安心だべさ、と、みなが、言っていたし、思っていた。 それが、失敗だった、今となっては。 ニュースなどで、津波の計測や警報や、さまざまなことを言っていますが、予報や予測が進めば進むほど、逃げる人は減る、というのを、当時、まざまざと感じました。 おっかながっていたのは、おれたちだけだった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013年03月05日 23時15分49秒
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