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テーマ:世界の中の日本(546)
カテゴリ:「個」「孤独」「群」「共同体」
ビデオを製作するためにタイに来ている。
タイは、1997年に憲法を改正して、民主化路線になり、地方分権化、そして、住民主体のコミュニティ開発を目指し出している。しかし、これが、なかなか浸透していなかったりと、うまくい機能しない事が多いそうだ。 長年行ってきた事と違うことをするので、頭ではわかっていても、実際やることは、旧態然のアクションになってしまう人も多いそうだ。 そのために、内務省の地方自治を推進するセクションでは、いろいろ地方分権のためのワークショップなどを行って、地方自治体をアシストするものの、なかなかうまくいかず。埒が明かないからと、あまり強く教えるとまた、もとの中央集権の上からの命令のようになってしまうという。 とはいいつつ、タイのやろうとしていることは、日本のやっている地方分権より、はるかに進んだ地方分権をやろうとしているようで、地域開発むについて言えば、住民参加型ではなく、住民主体を目指している。そのように、その志が高いからこそ、なかなか達成できないのだろう。 ちなみに、日本の方は、地方分権と謳いつつも、町村合併を推進することで、中央から管理しやすくなったり、住民の意見を汲み取りにくい大きな枠組みにするなど、言ってる事とやっていることが逆行しているようにも思える。 日本は、世界に誇れる平和憲法とはいいながら、平和の逆の言葉を戦争とするならば、その戦争をするための軍隊のようなものを持っていたりと、なかなか、条文どおりにいっていない。 憲法は、その国のコンセプトを書いたものだとすれば、その通りになるのが、ベストだが、良いことが書いてあるがために、実態が追いつかないのかもしれない。 しかし、書かれていることと、実情が合っていないにしても、目指しているからこそあっていないのは仕方がないと思う。 危険なのは、憲法と実情があっていないこと、憲法や政策に基づいて作られた法律と実情かあっていないとき、憲法や政策にあっていないことは、良くない事とということで、事実を隠してしまうとか、現状を認めない事だと思う。これは、 法治国家だとか、言えば言うほど、体裁を整えることに必死になってしまうことがあり、そうなった時は、一見、法の精神が守られているように見えても、実質的には、目指すへくベクトルと逆のベクトルが働き、問題を複雑化させることになる。 憲法というレベルではない、身近なレベルで言えば、学校で「校内暴力を減らそう」ということで、規則を作ったりと、様々なことが行われたが、その結果、校内暴力は減ったのだが「いじめ」という、また別の陰湿な暴力にとってかわられ た。そして、今度は「いじめ」をなくそうと、規則を作ったりと、様々な取り組みが行われたが、表面的ないじめが減ったが、いじめが陰湿化し、教師なりが、いじめに気がつきにくくなった。 「きまり」を守ることは、いいことだが、きまりを守られていることをということよりも、現実を見つめ、きまりと現実とが一致していないことを常に意識するこく、その決まりの志にどう近づくのかを検討し行動することが、その決まりの実効性を増すことになると思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2004.08.11 13:45:58
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