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碁法の谷の庵にて

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囲碁~碁界一般編

2019年07月14日
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テーマ:囲碁全般(716)
カテゴリ:囲碁~碁界一般編
先日、仲邑菫初段の公式戦初勝利が報じられました。更にAIとの公開対局も報じられました。

 以前、プロ特別英才採用制度について、記事(『日本棋院は若年棋士の保護を責務と心得るべきです!』)を書きましたので、この記事と併せてみていただきたいと思います。

 「仲邑初段は応援するし、棋士による選考を前提とした英才特別採用制度そのものは厳正な選考を前提に反対しないが、現在の日本棋院のあり方は問題がある」
 という私のスタンスは変わっていません。




 仲邑初段の公式戦初勝利が報道されるのはまだ分かります。
 Yahooでも写真が出るニュースになる程度には注目を集めていました。
 しかし,記者会見を開いてほとんど答えられていませんでしたが、10歳の子どもを記者会見に出すのはかなり問題があるように思います。
 子役芸能人で答え慣れているならまだしも、あまり答えもできていなかった事からすると、とりあえず周囲に言われたので出てきただけ…そう見えてしまいます。

 子どもは,周囲の希望を忖度し,周囲の希望通りの対応をしようとしてしまうという話はしょっちゅうあります。
 死ぬような虐待を受けている子どもですらも、親を庇い、自分が悪いと責め立てる…そういった話を知っています。
 仲邑初段が虐待を受けているという事はないものと思いますが、「仲邑初段自身がOKしている」という仮定を前提にしても、そこに周囲の意向の忖度の要素があるということは容易に想定できるので、はいそうですかと無邪気な支持には回れないのです。
 本当に心から記者会見に出たいと思っていることについては、私には根拠なく信じる、というより祈ることくらいしかできないのです。


 日本棋院は自前の判断能力に乏しい10歳の子どもをプロにしているのです。
 碁盤の上で例え井山裕太に圧勝できるほど強かったとしても、碁盤の上だけ強ければいいというほどプロは甘くないでしょう。
 むしろマスコミなどに出るとなると否応なく碁盤の外でのハードルは上がります。
 企業や芸能人の不祥事の例を見れば,沈静化させようと記者会見を開いたのに、対応や言葉遣いを誤ったばかりに余計な反発を買い総スカンを食ってしまうというのが、マスコミ慣れしている大企業トップや芸能人の会見でも別に珍しくないということは簡単に分かるはずです。
 マスコミは制御不能なねずみ花火のようなもので、自分たちの宣伝に使おうというのは、危険極まりない行為です。(怒り心頭に発した依頼者が「マスコミを使いたい」と言ってくるケースもありますが、私はそう言って止めています)
 将来的に引退して囲碁以外の人生を歩みなおすという選択も困難になりますし、その私生活だって脅かされかねません。
 判断能力の乏しさ故の誤った判断、周囲への忖度から仲邑初段を守ることが必要です。


 日本棋院は仲邑初段を記者会見に晒すのを止めるべきです。一般の棋士と同様、勝敗や棋譜を週刊碁や碁ワールドに載せたり、幽玄の間で棋譜を中継するのに止めるべきです。
 もちろん本人に持ちかけて「本人がいいと言った」ことはまったく理由になりません。
 もうマスコミその他に初勝利が報道されるほどに注目されてしまったので、今から「一切マスコミシャットアウト」を実行するのは厳しい(下手にシャットアウトしようとすると逆に生活が脅かされる可能性が出てくる)かもしれません。
 しかし,それなら直接のインタビューに晒さず、コメント形式での対応に切り替え、マスコミとの直接やり取りはさせないという手があります。
 そこでしつこいマスコミが現れたなら、盾となるのが日本棋院のなすべき仕事です。
 棋院で守れなくなるから棋院の盾の外に出ないで!と仲邑初段に指示するのはいいですが、積極的に出していくのはすべきこととは思えません。


  そもそも仲邑初段は「最高レベルの囲碁修行をさせ、最高レベルの棋力を身につけさせて世界に対抗する」ための人材としてプロ採用されたはずです。
 プロ試験をスルーさせた上で早期にプロに登用し,プロとしての公式対局の中で研鑽させるという考え方そのものは私は反対ではありません(アマチュアのまま特別研修生としてプロ級の修行を受けさせ、返還不要の特別奨学金を出す制度設計も考えるべきだと思いますが)。
 しかし、それなら本来の建前に立ち返って、「最高レベルの囲碁修行」をさせるべきです。
 中国や韓国に遠征させるか、国内で一流棋士やAIとひたすら打たせるか、詰碁を解かせるか、棋譜ならべか。記念対局も一応は、修行の一環と取れなくはありません。
 囲碁の研鑽にどのような手法が適切かは棋士の皆さんの研究や経験則に任せるしかありませんが、入段早々マスコミに晒すのが最高レベルの囲碁修行でしょうか。
 流石にそれは断固否だと思います。
 入段早々マスコミに度々晒すのも「最高レベルの囲碁修行」というのなら、せめてその根拠の一つも示してみろとおもいます。
 もちろん、マスコミに注目されながらもトップ棋士と互角に渡り合っている藤井聡太七段の例とは一緒にできません。仲邑初段はトップ棋士と互角に渡り合えるほどの力は現状ないと判断せざるを得ないからです。(仲邑初段の棋力面に関しても踏み込んだ感想はあるのですが、私が一介のアマチュアにすぎないことを踏まえてその点は黙っていようかと思います)





 私の上記のような批判や懸念が単なる杞憂に終わることを、心よりお祈りしています。






最終更新日  2019年07月14日 01時59分49秒
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2019年04月24日
テーマ:囲碁全般(716)
カテゴリ:囲碁~碁界一般編
棋士採用の制度については、棋院のホームページにもリンクがある棋士採用規程を参照しました。
 適宜参照願います。


 仲邑菫初段の棋士採用で話題になった英才枠による棋士採用。
 仲邑初段の入段の知らせに伴って初めて聞いたのですが、その時はへーそんな制度できたんだー程度に思っていました。

 私個人としては、プロ試験や院生序列による採用制度は公平性の見地からは極めて優れた制度ですが、将来的に世界で活躍できる棋士を選択するにあたって最良・唯一の手法とは断じられません。
 どの仕組みが良いかは統計を取るなどして検証・模索されるべきですが、標本を多数準備できるとも思われず、結局のところ多様な棋士採用制度の導入と非常に長期間を経ての検証によらざるを得ず、現実的ではありません。
 棋士採用制度の多様化は賛成します。

 その場合に、対局の勝敗以外で参考になるものと言えば棋士等による推薦や審査でしょうが、公平な審査による厳正な判定の仕組みが採られているという条件が踏まえられるのであれば、一応はアリ程度に思っていました。
 




 他方記念対局が多いとは言え仲邑菫初段の負けが込んでいたこと、個人的な感覚として、内容もあまりいいとは感じられないことが気になりました。
 確かに私よりは強そうですが、プロは私より強くても自慢にはなりません。うちの県のトップ10(阿含杯勝利経験者2、出場経験者1含む、私も入れるか微妙)が10人でかかれば2、3取りこぼす、アマチュアタイトルホルダーなら普通に勝ち越してしまうのでは?という感覚です。
 そこで、関連情報を検索し、棋士採用規程がアップされていたことに気づいたので見返してみたのですが…
 私個人は「若年者の保護と言う見地から、これは酷くないか?」という感想を抱き、若年棋士の保護という観点からこの記事を作成いたしました。

 なお、もし私が何らかの日本棋院の中での重要な規約などを見落としているという事であれば、ご教授頂ければそれを踏まえて以下の主張に関しては変更する用意がありますのでバシバシご指摘ください。(ネット棋院の閉鎖でいくつかの資料が消えている)
 なぜ見やすく公開しないのかとは思いますが、そういった規約を幅広く共有することは大切です。




英才特別採用制度の大枠としては、(棋士採用規程5頁、細則5参照)

採用目的:目標達成のために棋戦に参加し、最高レベルの教育・訓練を受けることができる者を選ぶ
採用基準:実績と将来性を評価。年齢は原則小学生。
審査方法:棋士2名以上の推薦を前提に、現役7大タイトル保持者、ナショナルチーム監督とコーチ3分の2の賛成によって審査会及び常務理事会を経て決定。
棋士資格:男子は七段、女子は五段以上になったら正棋士扱い。
棋士責務:マスコミ対応への協力



 前記した通り、「棋士による審査を前提とした英才特別採用制度」そのものは、厳正な選考を前提とする限りにおいて私は否定していません。
 英才特別採用棋士の正棋士扱いが遅いことについては、私としては試用的な棋士採用の方法として一理あると考えます。

 しかし、私が瞬間的にこれはダメだろ!と反応したのが、一般の棋士にない責務として、マスコミ対応への協力が責務というもの。

 本来なら、英才特別採用制度はある種の試用・育成制度として作るべきです。実際、制度上は正棋士ではなく対局料などに区別があるということで「英才特別採用も試用的な制度」として作っていることが窺えます。
 しかし、試用制度なら試用に対しては「辞めた後」のことを最低限想定してあげなければいけません。
 見習いを殊更に外部に大規模に宣伝してしまえば、見習いは例え「自分にはこの業界は向いていなかった」と判断するようになっても辞めにくくなります。
 
そして、英才棋士に対してマスコミ対応への協力を責務とすれば、当然棋士であることが外部に向けてもスティグマとなり、自身が棋士に向かない、これ以上の向上は望めないと諦めた場合においても棋士を辞め、人生をやり直す事が困難になってしまいます。
 私は以前、早期入段は早期に棋士から引退できる可能性ができると言う点で意味があると指摘しましたが、やめにくくさせてしまってはいけません。

 それでいて、規程においても、「マスコミへの対処については、棋院が義務教育や生活への影響、囲碁への研鑽に影響がないよう配慮する責任を負う」と言う棋院側の義務の規定すらなく、小学生であることが想定される英才棋士に一方的に義務を負わせる規定になっています。
 もしかしたら他に何かの規約があってバランスをとっているのかも知れませんが、棋士と棋院の権利義務を示す規約すら棋院のホームページには見つかりません。棋士志望者が知りたいと言ったら知るのは当然の権利でしょうし、ホームページで棋士志願者募集の項目があったりするので広く知られなければいけないはずなのですが、公開しないでどうする気なのでしょうか?
 そもそも、棋士として上を目指してもらうこと、囲碁の普及のために様々な活動をしてもらうことはどの棋士であれ(やり方に個人差はあれど)変わらないはずなのに、何故小学生の英才特別採用棋士という、むしろマスコミから切り離してその心情を守りつつ研鑽に集中してもらうべき棋士にだけマスコミ対応への協力がことさらに責務として設定されているのか。(他の正棋士や特別採用棋士にマスコミ対応への協力などは特に責務として設定されていません)

 一方的に義務を負わせる規定だけど「こちらでしっかりきみを守るのできみも勝手なことはしないでね、でないとこちらもきみを守れないよ」と言う趣旨で実際そう運用されているなら弁護の余地はある(それっぽい指導は私もする)のですが、今回の仲邑初段の例を見る限り、粛々と棋士として採用したら結果的にマスコミに注目され、棋院の頑張り空しく庇いきれなくなった…と言うようには見えません。
 成果を出す前から日本棋院自らバンバン宣伝しています。
 
 そこを併せて考えると、この規定は英才枠棋士を客寄せパンダ扱いすることを自白しているも同然の規定であると思います
 仲邑初段がこれから大成して勝ちまくることで将棋の羽生善治や韓国の李昌鎬のようないい意味での客寄せパンダの役割もできるならそれもいいですが、入段早々から勝ちまくった上でもないのに客寄せパンダ前提に棋士にすることに、私は正当性を全く感じることができません。
 将棋の藤井聡太フィーバーもそう感じましたが、藤井七段はプロ入り早々トップ棋士と互角以上に強いという囲碁界では想定しがたいような存在であったため、現段階では結果オーライになっているに過ぎないと考えます。
 今の日本囲碁界に、入段早々柯潔や朴ジョンファンと互先で10局打って3局以上勝てる棋士などいるとは思えません。
 
 そして、こうも客寄せパンダ扱いで採用するようにしか読めない規定を堂々と公開しているのでは、例え入段審査がどれだけ厳正に行われたものであったとしても(その審査の中身にも既に疑義が出ていることは知っていますが、今回は一先ず脇に置きます)、そこに信用を置くことはできなくなります。
 英才特別採用制度は公平性の点に問題がある分、審査担当棋士・棋院への信頼なくして成り立たない制度であり、制度そのものの趣旨目的や審査機構が信頼を失えばその棋士には好意的とは言えない視線が向けられてしまうでしょう。
 それも、英才特別採用制度の場合小学生に、です。

 



 とまあこんな風に、英才特別採用の規定には、合格者である若年棋士の保護と言う視点から極めて大きな問題を感じています。
 仲邑初段はじめ現にこの制度でプロになった方は応援しますが、制度としての良しあしは別論です。

 平成31年度の新入段者は11人で、このうち20歳以上は僅かに1名、18歳以上でも3名のみ。
 新入段棋士の大半は、まだまだ契約にあたって保護が必要な子どもなのに、個人事業主として契約し、対局に臨む。
 本来これはいびつ・危険なこと
です。
  
 若年棋士の保護をきちんとしないことは、人材の損失と言う問題だけでは済まされません。
 法律の理屈では棋士は個人事業主でも、一般の人は棋士は日本棋院の従業員のようなものとして密接に関連しているものと評価します。
 そこで若年棋士を採用しながらきちんと守っていないと言う評価は、ブラック企業に対して厳しい非難が向けられるご時世において、日本棋院・日本囲碁界の評価を暴落させられます
 若年者ならではの必要なケアを十分にせず、当人や親に投げてしまうならば、それは囲碁界全体の品位を落とすことになるでしょう。
 アイドルが自殺し、事務所との間の訴訟が大きな話題になり、事務所に批判の声が高まっていますが、若手棋士が何かやらかしたり伸び悩んだりして精神的に追い詰められ、棋院にも家族にも相談できず自殺でもしたら、その芸能事務所の二の舞です。
 
 
 また、社会的に無知な若者に対しては、暴力団のような反社会的な勢力が関与して来ることも考えられます。残念ながら、若者の思慮無分別に乗じてぼろ儲けし、最後にはその若者をぼろ雑巾のように捨てていくクズは、いろいろな業界を狙っています。
 野球賭博の件では野球選手が道を踏み外しました。
 弁護士も、そういう反社会的勢力の甘い誘惑の声にそれと気づかず引っ掛かり、気が付いた時には金も資格も失った例だってあるのです。

 若年棋士たちは彼らが反社会勢力であることも気づかずに自分のことを応援してくれる人だと思って舞い上がり、気が付けば詐欺行為の片棒を担がされていたり、碁が不調になり心が弱っているところを狙われて薬漬けにされたり…というような事態だって考えられます。(棋士ではありませんが、仕事や生活がうまくいかず心が弱り、ふらふらと薬物に手を出す人の弁護は何人も経験しています)
 棋士になろうとするとそれなりに裕福な家庭の子が多いようで、その点でも狙いやすい面もあるでしょう。狙うは若年棋士自身よりも若年棋士の親の金、というわけです。
 誰もが持つ心の弱さや無知につけ込んでくる彼らを甘く見てはいけません。「心を強く持つ」と言うお題目は、何の役にも立たないのです。
 彼らに狙われた場合、世界でも戦える逸材棋士や一線こそ退いていてもレジェンド級の名棋士でも除名処分せざるを得ないどころか、日本棋院への信頼だって地に落ち、大口スポンサーが撤退したり公益財団法人の立場すら怪しいという事にもなるでしょう。

 更には、日本棋院がめちゃくちゃオブラートに包んだ表現をしても「決して盤石な存在ではない」ことは、真面目に囲碁界の情報を追っている大人なら多くの方が分かっているはずです。真面目に追ってない私だって分かりますからね。
 であれば、棋院の外でもしっかり暮らせるようにする。これも不可欠なことです。


 日本棋院は若年棋士を選手としてただ発見して強くするだけが大切なのではなく、盤外では棋院全体でしっかり守らなければならない存在であることをきちんと認識すべきです。
 ほめる・応援する・宣伝する・育成すると言うような形での応援だけではなく、その生活や安心・環境をきっちり守る。
 そのためには棋士としての責務をある程度後退させることもやむを得ない、そこは余るほどいる年長棋士でカバーすると割り切る姿勢をもつ。
 無知や思慮浅薄に基づく思考や行動を当人の意思の尊重と称して放任しない。
 日本棋院が面倒を見られなくなる事態が生じてしまったとしても、一人で生きていく力をつけさせていく、少なくともそれを邪魔しない。



 棋院に限らず、芸能でもスポーツでも、その意識が十分持てない業界が、専門家として未成年者を採用する資格はないと考えます。






最終更新日  2019年04月24日 01時39分31秒
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2019年01月31日
テーマ:囲碁全般(716)
カテゴリ:囲碁~碁界一般編
仲邑菫初段の入段が、囲碁界に一つの注目を集めさせているようです。

 仲邑初段と「女流世界最強」崔精九段の碁は見ましたが、棋譜を見る限り「元気いっぱいではあるものの実力差が大きすぎないか?」というのが正直な所感です。

 もちろん、世界戦での日本の惨敗ぶりを考えれば敗北自体は予想の範疇であり、仲邑初段もそれは分かっているかと思います。
 井山裕太でも日中桐山杯で古力に手も足も出せなかったような時代を経て今の地位にいる訳ですから、ここからの成長に期待すること自体は十分可能だと思います。

 プロ試験制度という視点からの批判もありますが、私個人は英才枠制度自体は否定すべきものとは思いません。「囲碁界にどのように役立つか」で決められるというのは一つの在り方と考えるからです。
 ただ、棋士採用がほぼ棋力一本で行われている現在のプロ登用制度の中に英才枠を盛り込んだので、ちぐはぐな印象を与えます。
 囲碁界発展のためにさまざまな視点からのプロ登用制度は一つの在り方(全面賛成という訳ではないですが、制度設計として一理あると感じる、程度に考えてください)と思うのですが、プロ登用制度全体の中でどのように位置づけるかしっかり考えないと単なる恣意や不公平になることも考えられます。
 せっかく鳴り物入りで入段した「英才」が見るも無残に連敗し、入段時点が棋力の限界で気が付けばしがないプロになっているのでは、意味がありません。




 …さて。
 やや後ろ向きな話になりますが、仲邑初段のような早期入段は,しばしば英才登用制度として扱われますが,個人的に思う「早期入段のもう一つのメリット」を指摘したいと思います。
 それは,「早期にプロを辞め、人生を設計し直す」という選択肢が生じることです。


 「プロ前の期待値」と「プロとしてどれだけ活躍できるか」は違います。
 プロもピンキリであり、タイトルに絡める、あるいは国際戦などで存在感を出せるような地位に一度でも行ける人は本当に僅かです。
 「現在形でタイトルに絡む棋士」まで絞ると更に僅かでしょう。数えてませんが、2,30人に一人と言った所でしょうか。

 そして、新初段の頃は鳴り物入りで期待されまくった(新初段シリーズの記事がちょうちん持ちすぎる気もしますが)新初段が、タイトルや挑戦者になるでもなく、たまに本戦にちょろっと顔を出すか、それすらないしがない中堅棋士となり、結局囲碁指導などの普及に軸足を移している…という例は、心当たりがあります。
 プロになった時点でトップ棋士と互角、棋戦でもいきなりリーグに入るくらい好成績なんて将棋の藤井聡太のような例は奇跡です。
 成功の定義はまちまちかもしれませんが、「絶対成功するメソッド」「絶対成功する人を見極めるメソッド」は確立されていないのですから、プロを採用するにあたってはある程度青田買いをせざるを得ませんし、「収穫できない青田で終わる人が出る」ことは避けて通れません。
 だからこそ、義務教育を受けさせることは必要だと思います。「絶対成功」の確約があるならそれでもありかも?程度には思いますが、そんなものはないからです。
 「絶対成功する」と言う希望的観測・机上の空論・こうあってほしいと言う願望にしがみついたことは、国民に何百万人もの犠牲者を出しました。

 
 そして、多くの棋士が普及などに軸足を移していきます。
 普及をバカにする意図は毛頭ないのですが、「新初段の頃は、普及をするにしても、井山やイチャンホ、将棋の羽生や藤井聡太のようなスター的な形での普及がやりたかったのでは?」とも思うのです。
 学生時代に入賞1回、6年前に県代表経験1回。一般の人相手なら自慢できても、ある程度強い人たちの世界の前では「あっそ」程度の今の私ですら、実は指導碁の真似事位やっていたりします。
 私の真似事とプロの普及活動を比べるのは失礼だろうと思いますが、「彼らはこれをやりたいがためにプロになったのか?」と思わずにはいられないのも確かです。

 結果として上位に行けなかった、あるいは上位にはいたが年を重ねて衰え気味になった棋士の受け皿として,普及が存在している,というのが現状であるように思うのです。
 それはそれで悪いとは思いません。テレビで見なくなった芸能人も,実は地方営業でしっかり生き残っていたりします。
 アマとは一線を画する高い棋力はもちろん、上位にいたころの知名度やプロとしての肩書は、普及にあたっても大きな武器になるでしょう。

 しかし、「本当にそれがやりたくてプロになったの?」ということを思うと、「勝てなくなったプロはいっそプロという世界から下がる」という選択肢もあっていいように思うのです。
 早期にプロを辞めれば,人生を立て直すこともできるでしょう。プロではありませんが,10代で囲碁漬け生活からプロを諦めた院生が大学に進学し、様々な方面で活躍していると言う話もよく聞きます。
 しかし、プロとして引導を渡されるのが20代後半とか30代以降になってしまうと、もう潰しが効かなくなってしまってずるずる…それが実情だと思うのです。
 それであれば,10代のうちにプロの道から下がり、アマチュアとして別の人生を歩みつつ,プロとしてのしがらみから解放する余地を残すことはあっていいのではないでしょうか。
 もちろん囲碁記者とか、碁会所経営をするとか,「囲碁には関与するが棋戦を打つプロではない」という路線もあり得るでしょう。

 

 青田で終わってしまう棋士にもっと早く別の道を用意してあげられないのか。
 それを考えると、早期引退の可能性という意味でも、早期にプロの道から離脱する余地を残す=プロに早くしてあげて代わりに引退も早くすることができるようにするというのは一つのプロの在り方のモデルではないかな,と思います。
 

 仲邑初段が今後大成することを祈り、応援もしますが、10歳のときの決断で今後の人生を全部囲碁にオールインしてしまう必要はありません。
 もし何らかの違う道を歩みたくなったら違う人生を歩んでもいい。
 仲邑初段は心の隅っこで構わないので、そのことを覚えていてほしいなと祈っています。






最終更新日  2019年01月31日 13時44分18秒
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2018年08月29日
テーマ:囲碁全般(716)
カテゴリ:囲碁~碁界一般編
囲碁講師の坂谷先生からこんな話が。






『初手小目の場合,Q17の点に打つのはマナー違反なのか?』

(リンク先参照)

 私は19路盤で黒を持ったらほぼ小目しか打っていません。(握りがめちゃくちゃ弱いので黒をなかなか持てませんが)
 そして、初手は右上R16に打っています。

 初手は局面が完全な線対称・点対称ですから,小目なら例えば4Rとか3Dなどに打っても全く価値が同じなことは、私も分かっています。
 ではなぜ私はR16に打つのか。
 そして、なぜ初手小目を選択する多くのプロ棋士・アマチュアもR16を選択するのか。


 少なくとも私自身は、あえてR16を選ぶ理由はありません。自分個人の体験からくる単なる「慣れ」のようなもので、それがマナーだと思ったことはありません。

 プロが初手小目を打つ場合に右上R16が選ばれるのも,おそらく同じだと思います。

 何故R16が定着したかは分かりませんが、私個人の仮説としては『右利きの人が多く、また場所的に一番打ちやすいのが右上であるから右上が定着し、それを皆がまねして現在に至る』ということではないかと推測しています。
 この推測が当たっていれば、左利きの方であれば,左上の方が打ちやすいと言うこともあるように思えます。
 人間の左利き率が9割だったら、初手小目はDが大半になっていた…というのが私の仮説です。

 1999年の第24期名人戦の挑戦手合で、黒番の依田紀基九段が初手を左上に打って話題となったことがありましたが実は依田九段は左利きだったりもします。


 ただ、そういった「慣れ」があるので、もし自分が白を持っている状況で別の小目に打たれたら,引っ掛かるものを感じることは否定できないでしょう。
 思わず相手の顔を見てしまうかもしれません。
 これは何なのだろうか?気分転換?ゲン担ぎ?挑発?作戦?などと余計なことを考え始めてしまう可能性はあると思います。
 なので、私相手に黒を持ったら右上以外に小目を打つと言うのは精神攻撃作戦としてそこそこ有効かもしれません(笑)。
 局後の検討をする場合、尋ねるタイミングがあったら「珍しいですね?」位の声はかけるかもしれませんが,そこで「あなたブログでR16以外の小目を打つと乱れるかも知れないと書いてたじゃない」とでも回答すれば完璧でしょう(笑)。


 もちろん、私はそういった引っ掛かりをマナー違反であると糾弾する気にはなりません。
 「右利きが多いから定着した」という私の仮説が正しければ,「左利きの人は打ちたい所から打つこともできない」となりかねず、差別的ですらあります。
 他にも、体の小さい子どもなどが「自分の手元に近い所が打ちやすいからQ3から打つ」なんていうのもいいことだと思います。


 それに、対局中に正当な着手でもって精神的な揺さぶりを狙うことは実は私自身も戦術としては多用します。

「同じくらいの価値のヨセが複数ある場合、逆ヨセを選ぶことで相手にしまったと思わせ焦りを誘う」
「特に勝負所と思えない所ではあまり考えずポンポン打つことで、相手にも釣られてポンポン打たせ、時間を残しつつミスを誘う(置き碁アリの大会で下手打ちする場合に使う戦術)」

程度の精神攻撃に近い着手はやっているわけです。
 ヒカルの碁で、海王囲碁部部長の岸本が三谷に「つまらないコウを争って力戦派の三谷の精神を乱す」という戦術を仕掛けましたが、これもアリでしょう。
 そこまでダメと言われた日には私はもう大会の類出禁となること請け合います。


 今度、もし自分の対局の棋譜が採録されることがあったら,初手を17ー4以外の小目に打ってみようかと思います。
 文句言ってくる人がもしいましたら受けて立ちます。
 万一それが法的問題になった場合においては無料で弁護しますのでご一報ください。






最終更新日  2018年08月29日 23時40分01秒
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2017年01月20日
テーマ:囲碁全般(716)
カテゴリ:囲碁~碁界一般編

 白石勇一六段。新人王獲得経験もある実力派棋士の一人です。



 彼は高校・大学で活躍してからプロ試験を受け、合格しました。



 彼と私は、同じ高校・大学の大会に出ていたこともあります。

 私が囲碁歴を聞かれた場合、囲碁界の有名人で私と年代が近い人、というと真っ先に思い当たるのが白石六段なので、年代を分かってもらうために勝手に引き合いに出しています。

 

 といっても、白石六段は当時から自分にとって雲の上の人。

 私は高校で急に強くなったのをいいことに粋がり、トップの洗礼を受けまくった思い上がり野郎。

 大会で当たるところまでもいかず、練習対局で打っていただいたこともあるのですが、勝負にならないレベルでやられました。

 それでも、棋士は軒並み雲の上の人と感じている中では、まだ近い人というイメージを持っています。(後は年代が一回り下の下坂美織二段くらいでしょうか)

 

 

 さて、白石六段は昨年からブログtwitterを始めていました。

 ブログでプロ棋戦の棋譜紹介をしていただいて、私も興味深く見ていたのですが、どうもスポンサーの意に染まない点があったらしく、棋譜紹介を当面中止することになったとのこと。


 現在調整をしているところのようで,どうなるかの状況は注視しています。


 一応、自己の対局棋譜の利用は日本棋院&対局相手の同意不要、他の棋士の対局棋譜を不特定かつ多数に提供する場合には棋院の(対局棋士のではない)事前同意を得る必要があるという規定があるので、白石六段はある程度包括的に同意を取った上でやっているのだと思っていたのですが…。
(日本棋院対局管理規定3条,棋譜の使用に関する権利規定参照)

 


 こんな件もあったことを契機に、個人的に棋譜の利用について思ったことを書いてみます。

 なお、白石六段の件が具体的にどうもめたかのやり取りは不明瞭・情報不十分なので、下記は白石六段の例を離れた一般論としてお読みください。

 




 日本棋院は、こちらの公式ホームページの記載や対局管理規定を見ればわかる通り、棋譜は著作物であって対局者に著作権が発生する、という立場を崩していません。

 その上で、日本棋院としては、プロ棋戦については棋譜の第一次利用権がスポンサー、著作権は対局料を対価として対局者から日本棋院に譲渡される,という考え方を採用しています。

 こちらも参考になるかと思います。

 

 

 ただし、これは日本棋院の棋戦内規に過ぎず、本当に「棋譜が著作物である」と見解が日本棋院の外で大手を振って歩けるかは,難しい問題だと思います。

 チェスの棋譜については、海外で著作物でないという扱いになっていると聞いていますが、囲碁や将棋・オセロ、その他ゲームの棋譜については、現在日本の裁判所の判例は見当たらないようです。

 「どちらの見解にも一理あると見ざるを得ない、学説上は著作物にあたらず、誰もが自由に使えるとする説が優勢」というのが私の現状認識ですが、統計を取っている訳でもなく正確性担保は無理です。

 結局棋院やスポンサー、あるいはお隣将棋連盟が何らかの形で裁判に出て判決が言い渡されるか、立法的解決でもされないと結論は出ないものと考えられます。

 

 もっとも、棋院が公式見解として棋譜の著作物性を認め、判例がある訳でもないという状況ですし、スポンサーに配慮すべきことは当然ですから、日本棋院の棋士や職員としては現状その立場を尊重し、それに従った対応が求められるでしょう。

 将来的に棋譜が著作物ではないと認められる可能性はあると思いますが、仮にそうなったとしても、今の段階で組織統制上それを勝手に無視することは不適切と考えます。




 そして、上記の規定はプロ棋戦の運営に関するものにすぎず、アマ棋譜の著作権(プロが対局する場合でも棋院の管理運営しない対局などはこちらに入ります)まで統制するものではありえません。

 「棋譜は著作物」という立場をとるにあたって、プロの棋譜だけが著作物でアマの棋譜は著作物ではないということはないでしょう。

 価値はモナリザと落書きくらい違うかもしれませんが、日本棋院の考え方からすれば、著作物であるという一点は共通のはずです。





 そして、私自身も、地元の新聞や県版に棋譜が載っています。テレビ放送されたことも何度かあります。

 一回だけ全国大会に出られた時には、全国大会の棋譜が自分の住んでいない東京の夕刊に載ったこともありました。(かなり後になって知りましたが…)

 そして、掲載にあたって「この棋譜載せたい・テレビ放送したいんですが大丈夫ですか?」と聞かれたことはありません。

 謝礼・報酬に属するものももらっていません(交通費は頂いたことがあります)。

 

 

 アマ本因坊戦のようなアマ一般棋戦の対局の場合、参加者はスポンサーや主催者の職務上対局しているという訳ではないので、その棋譜の著作権は主催者と出場者の間で別段の合意がなければ対局者双方の共同著作物となり、著作権が共有されるものと考えられます。

 「別段の合意」として、主催者である新聞社や棋院との間で棋譜の著作権帰属の規約が存在している可能性もあると思います。

 しかし、検索しても、棋譜著作権の帰属について示したルールは見つからず、個人的にもそんな規約を見せてもらった記憶はありません。

 対局ルールは日本囲碁規約に準拠します、とかコミ6目半で持ち時間何分と言われたことはあっても、自分の棋譜の著作権はどこに、という説明を受けたことは学生棋戦でもアマ棋戦でも記憶の限り皆無です。

 

 

 また、雑誌や週刊碁では読者から投稿された棋譜が掲載されているのも見たことがあります(最近碁ワールドなどは読んでいませんから情報が古い可能性があります)が、この場合、投稿者の対戦相手の承諾はおそらく取れていないでしょう。

 棋譜に著作権アリという見解からは、対局者の一方の同意を採れないまま一方対局者の投稿のみに基づいて棋譜を掲載することは、やっていいのかどうか疑わしいです。
 一応、幽玄の間の対局の棋譜については、著作権が日本棋院に帰属することが規約にしっかり書いてあったりするのですが。(こちらの7条)

 

 

 棋譜が著作権の対象になるということは、アマ棋戦において主催者が対局者の棋譜を掲載することも,対局者個々人の持っている棋譜に対しての権利を制限するものという位置づけになります。

 従って、当然主催者としてもこのような事実を伝え、参加者にそれを理解した上で参加・不参加を選択する機会を保障すべきものです。

 アマチュア囲碁界の慣習だから、で通すのは難しいだろうと思いますし、何より棋院自身の主張に反します。




 棋譜の著作物性を認める立場からすれば、こうした状態はれっきとした著作権侵害の温床であり、由々しき問題ではないでしょうか。




 

 なお、誤解なきように付言しますが、私個人は棋譜が著作物であると認められたとしても、私の棋譜の使用を著作権侵害というつもりはありません。これまでも、これからもです。

 囲碁界に話題が提供でき,囲碁界の活性化につながる(すそ野を広げるだけでなく既にある野が枯れないよう水をやるのも大切な普及と考えます)のであれば、私個人は報酬の有無に関係なく棋譜の提供に同意するつもりがあります。

 むしろアマチュアの私には過ぎたる名誉と考えています。

 また、主催者側も、景品出して、昼食出して、会場借りて、機材集めて休日に人手を集めてやっていれば、数千円の参加費で足りているか疑わしい所があります。

 その点に対する謝礼というか参加費の一部と言う意味でも、棋譜を使われるくらいは「安い物」という視点もあります。

 

 ただし、これはあくまでも私が個人的な感覚に基づいて取るであろう個人的対応に過ぎず、他人に強制してよい性質のものではありません。

 棋譜を著作物とし、それで運営するという立場で行くならば、棋院もアマの棋譜を大事にする姿勢を示すべきではないでしょうか。

 プロの棋譜は著作権で使わせないのに、アマの棋譜は好き勝手に使います、ということのないようアマの棋譜利用について明確にすべきなのではないかと思います。

 棋譜は例えアマのものであれ好き勝手に使ってはならない大事なものだ、という意識を持たせることは、プロの棋譜の価値を高めることにもつながるはずです。

 






 そして,棋譜の掲載などについて参加アマから許諾を取る態勢にしたところで、おそらく多くのアマは自分の棋譜は断固使わせないとは言わないのではないでしょうか。

 

 現にアマ棋戦の棋譜についてこんな記事を書いているのは私くらいで、しかもその私も棋譜を使われることが分かっても抗議など考えたこともなく平気で大会に出ているわけですし(笑)。

 






最終更新日  2017年01月20日 18時50分07秒
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2017年01月10日
カテゴリ:囲碁~碁界一般編
(この文章は私個人としては正課運動の関係者にかなり好意的な補正をかけた上で書いていることをお断りしておきます。)


  囲碁を小中学校の正課に,という運動があるそうですが,現状において私個人としては乗りません。
  私も知らないような何らかの特別な効能が立証されたとか,公教育サイドから特に囲碁の効能が注目され,囲碁が新正課候補として挙げられるなど具体的な形になってきている中でプッシュするとかなら,分かるのですが…
 一応,平成27年には囲碁が全国の小中高70校で正課として取り上げられたそうでそこがとっかかりと言えなくはないですが,微々たるものと言うのが私の評価です。
 
  少なくとも私個人の知識の範囲内では,囲碁に他の様々なものを押しのけてやるだけの価値は感じられず,私としては今のところ署名をしていません。
  仮に私が学校で好きに授業を持つことができるなら,選ぶのは囲碁じゃなくて防犯とか法教育でしょう。こんな話とか。




 私も,物は試しに趣意書を読んでみました。

 どれだけ囲碁が素晴らしくて,正課に取り入れるだけの価値があってもおかしくないぞと思わせられる記述に唸らされる・・・と思いきや,実質僅か1頁で,


①教育面、教養面、文化面を通じて青少年の健全な成長に大きく役立つ。

②幼少時から囲碁に携わることは思考力、集中力、記憶力、判断力、忍耐力ほかの精神力を蓄え、礼節をわきまえ、コミュニケーションを円滑にするなど、人間形成に想像を超えた効果を発揮する。


実質これだけで,無理じゃないかと思いつつも期待もしながら読んだ私としては肩透かしを食わされた感があります。


 囲碁正課運動に好意的に解釈するならば,正課運動を進めている方々が,私の知っている囲碁の実情と比べても正課にするだけの価値を感じる何かを感じているととらえることは不可能ではないと思います。
 実際,発起人の中には,私の知っている中にも碁会所経営やインストラクターをしている有名人が何人かいます。
 代表の菊地康郎氏など,緑星学園で幾人ものプロ棋士やアマ強豪を育てた実績のある人物です。
 囲碁が人格形成に役立った(と思われる)人物がいること自体は私にも理解できます。
 こういった方々は一介のアマチュアにすぎない私と比べてもつぶさにそういうのを見ているからこそ,評価している…と捉える余地もないわけではありません。




 しかし,それなら趣意書そのものか,あるいは趣意書に別紙でもつけて,もっと具体的な根拠をつけて書くべきです。
 それも,一部の成功例だけをつまみ出しているのではなくて,全体としてそうなんだ,というだけの根拠が必要でしょう。
 手っ取り早い所で,先述した70校の囲碁を正課に取り入れた学校での取り組みの成果はどうだったのでしょうか?
 そもそも,その70校のうち,翌年も正課として続けます,と言ってる学校は何校あるのでしょうか?

 さらに,私個人としてはそれは囲碁に限った話ではないと感じるので,特に囲碁が有効である理由を示すべきだとも思っています。
 3才から囲碁的な思考に慣れ親しんだ私は,いろんな競技や社会現象,時には裁判とかでも囲碁的なものをしばしば見出しますが,逆に言うと「囲碁的なもの」はどこに行ってもあるのだ,という感覚も持っているのです。
 
 そういった具体的な論拠も実例も書かないで,ただ囲碁は幅広く認められている,といわれてそうですか,と言えるほど,囲碁の有用性が公知の事実だ,とは私には思えません
 生まれて30年近く,人生の9割囲碁を打っていた私がそう思っているということは,囲碁を知らない人たちはますます根拠薄弱と感じるか,逆に囲碁に対しての漠然とした印象,平たく言えば無知につけ込む結果となりかねないように思います(そうなるくらい囲碁が普及してるなら,こんな署名も多分ないと思われる)。



 なお,将来的に囲碁の効能が認められ,正課に取り入れるだけの価値が社会的に認められたので,本当に正課になった上で,実際に教育的な効果が幅広く出たというのであれば囲碁好きとしては喜ばしいことだという感覚は持っています。
 そういう意味では,囲碁が正課になるのは私の望みでもあると言えなくはありません。
 しかし,これは酔っぱらいが「酒をいくら飲んでも健康を害さないことが医学的に立証されればいいのにな~」とふと思う程度の望みであり,現段階でこの運動に賛意を示すかどうかは全く別の話です。


 少なくとも,現在の私の持っている囲碁の知識と趣意書の記載内容の限りにおいて,囲碁を正課に取り入れることには説得力を感じません。






最終更新日  2017年01月10日 18時55分09秒
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2017年01月05日
テーマ:囲碁全般(716)
カテゴリ:囲碁~碁界一般編
 お正月、私は顔をヒクつかせながら過ごしていました。
 野狐囲碁なるネット碁のサイトに登録して、東洋囲碁と合わせて(九段まで上がったIDが残っていたのでプレミアム室でタダ見できる幸運)強豪vsAI囲碁の対局を見ていました。

 当然、Master(AlphaGo)とDeepZenGo(DZG)を主に見ていたわけですが・・・、
 はっきり言って
「なんじゃこりゃ!!」
と顔をヒクつかせるしかありませんでした。

 いや、AGの2局目や3局目を見た時もそう思いましたが、こんなにあっさりとそれを上回る「なんじゃこりゃ!!」が出てくるなんて思いませんでした。
 新年早々今年1年の驚きの半分を使い果たした気分です。
 
 本業でこっちの主張を根底からひっくり返される証拠を出された時ですら、(もちろん見えない所で)こんなに顔をヒクつかせはしなかったのではないでしょうか・・・
 DZGは、第2回囲碁電王戦より腕を上げていると思いました。
 東洋九段の強豪連が為すすべもなく次々撃沈されていくのは、それだけで顔面蒼白と言う感じです。
 たとえ治勲先生があそこで打っててもあんなには勝てないと思います。
 ただ、DZGはまだしも死活ミスをした光景が見られました。
 東洋九段もアマチュア率は結構高いことは知っていた(キープできないとはいえ私も一応九段なので)こともあって、まだ付け入るスキがなくはないのかな?という印象をもちました。


 ところが、さらにその上を行ったのがMaster。後にAlphaGo(AG)であることが公表されました。
 世界戦を追い回さなくなって久しい私にも世界最強候補としてその名が聴こえてくる世界トップ棋士たちが、あれよあれよという間に撃沈されていくのです。
 序盤から明らかにポイントを挙げられて、そのまま挽回の可能性が全く感じられないまま撃沈。
 人間目線からすると不思議な手でも、どんどん理にかなっているのが分かってくる。
 これは行ったか?と一瞬思っても私の目から見ても問題として出されれば難しくない手をサラサラと打ち進めてはい、コミガカリ。間違っていたのは私の目でございましたごめんなさい。
 とにかく弱点らしい弱点が全く見当たらないのです。
 3月のAGより強くなっていても、何らかの弱点が見つかっていたならば、私はこんなに驚かなかったと思います。
 ところが、全く弱点が見つからないのがさらに驚きに拍車をかけました。
 ネット上ではsaiを思い浮かべる人もいますし、確かに彗星のように現れたネットの最強棋士という点はsaiだと私も思っています。
 しかし、おそらくその実力はsaiでも及ばないというか、佐為ならむしろ喜んで石を置いて教えを請うのではないかと思います。
 それほどの力の差を感じてしまうのです。
 
 去年3月のAlphaGoでは、まだ超手数一本読みという弱点をセドルがついて一矢を報いました。
 しかし今度はもう弱点らしい弱点が全く見当たりません。トッププロがよってたかって快刀乱麻という状態で私に弱点が見つけられるなら、私はもうプロで結構打ててるんじゃないでしょうか(苦笑)
 


 将棋のPonanza作者である山本一成氏の例え(現在はちょうどセルゲーム終了くらい)を借りるなら・・・
 これまでの人間の世界トップはフリーザ様を倒した時の孫悟空くらい。
 Masterはセル完全体くらい差を感じました。

 まだ魔人ブウだのビルスだのが出てくるのではないかという可能性を思うと笑うしかありません。

 全王様がご降臨して囲碁を極め尽くして終了させるのはいつなのでしょうか。



 え?私?ゴミめと言われたおじさんくらいでしょうか。
 もうちょっと前なら人間性最低なミスターサタンくらいとか言ったと思うんですが・・・
 もっともしがないアマチュアからしてみればラディッツの段階で白旗ですが。



 あの碁を見た今となってはむしろ囲碁より将棋の方に人間の勝機を感じる気がします。

 プログラムのほんのわずかな弱みは、一本道超手数の読み(DZGが死活ミスをする原因でしょう)なので、盤面が狭く長手数の読みに近い将棋の方が、まだワンチャンある。そう感じるのです。
 言うなれば、囲碁というゲームが将棋より深いからこそ、人間が勝機を捉える可能性は皆無ではないかもしれないが、もう天文学の域に入ってしまった・・・と感じました。




 この件で、色々と囲碁に関する感覚の変わったこと、意外にも?変わらなかったこと、考えたこともあります。
 このあたりはおいおい、書いていこうかと思います。






最終更新日  2017年01月05日 20時10分07秒
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2016年12月24日
テーマ:囲碁全般(716)
カテゴリ:囲碁~碁界一般編

ネット上の超絶棋士「神の手」 囲碁界騒然、正体は?

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161224-00000034-asahi-soci

この記事を見て、saiを思い浮かべない囲碁ファンはモグリといってもいいんじゃないでしょうか。
知らない方はぜひヒカルの碁を読んでみましょう。


話題の「神の手」GodMoves(GM)の棋譜も見てみましたが、確かにこれは人間である限り勝てないのでは・・・?という印象を抱きました。
まあ私も、幽玄の8段上位とかと打ってると「私は人間だぞ!こんな化け物どもにどうやって勝てっていうんだよ!!」とかパソコンの前で相手に聞こえないのをいいことに悪態をついたりするので、私の人間である限りという感覚は当てにならないのかもしれませんが。



先日の囲碁電王戦以降、DeepZenGo(DZG)の情報が入ってくるにつれ、

「DZGはアマチュアの大会に出れば地力は一番だが優勝しようとするとどこかで足元をすくわれる」

という電王戦段階での感想は甘すぎたようだという感想を抱きました。
気鋭のプロが新たに負かされ、さらにトップアマですら石を置いて負けるという情報が入ったので、劣勢暴走はありえないわけでないにせよ相当克服されていると考えられ、そうするといよいよプロを連れてきて次々挑ませてもどうか、ということになります。


そして、GMはそれを明らかに上回っていると言えるように思います。
GMの棋譜を見ていても、私の感じるところの「プログラムならではの変わった手」が感じられないのです。
一瞬えっと思うような手はもちろんありますが、それは人間のプロの碁を見ていても同じこと。というより私が力不足なだけだと思います。
GMは人間が打っていると聞いても違和感がない着手で、ただ壮絶なまでに読めている。
ソフトの弱点である一本道の読みも苦手ではない。(棋譜の徹底研究はしていないので、実は読み抜けがあるというオチもあるかもしれませんが・・・)
そういう印象でした。

私が感じている人間の実力からすると、GMの正体は新ソフトかソフトを参考に打っている人間と見るのが妥当ではないかと思いますが、なんであれGMの後にAlphaGo(AG)と並ぶ戦慄を覚えたことは確かです。

少なくとも、棋譜を見て戦慄を覚えるくらいの感覚を自分が持てていることに、感謝したいと思いました。






最終更新日  2016年12月24日 16時15分33秒
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2016年11月25日
テーマ:囲碁全般(716)
カテゴリ:囲碁~碁界一般編
 第2回囲碁電王戦、ひと通り見させていただきました。
 あ、もちろん対局者は私じゃありませんよ(笑)。
 生放送で見ていた対局もあるので、ニコニコで見ていた方は、もしかすると私のコメントを見たかもしれませんね。
 第2回囲碁電王戦は、対局プログラムのDeepZenGo(DZG)に関する情報が乏しかったこともあり、勝敗予想は難しかったところがありました。
 AlphaGo(AG)と同格なら私は迷わずDZGの3-0に賭けたことでしょうが、AGよりは落ちるようです。
 とはいえ、全く勝負にならないほど弱いならこうした形で挑んでは来ないという推測は簡単です。
 人間(趙治勲名誉名人)の●×●と言う結果や対局の内容は、興行としても、ソフトの力を見るという意味でも、まずまず成功だったのではないでしょうか。



 第1局。黒(趙治勲)が目外しを連打。
 治勲先生の棋譜にそこまで詳しいわけではありませんが、目外しを使う印象は全くありません。
おそらく、変化球を投げてみて様子を見る、という感覚なのだと推察しました。
 序盤は黒(趙治勲)苦戦に見えました。右辺黒カカリに対してのカタツキは、個人的には全く違和感のなかった手なのですが、プロ目線からは驚きを持って迎えられたようです。
 中盤までのねじり合いを見てもDZGが押しているのではないかと見ましたが、手どころでのミスが痛く、最後はAGも見せた劣勢時からの暴走が発動。
 黒の勝利となりました。



 第2局は、左下隅のワカレがあまり白(趙治勲)良さそうに見えなかったのですが、その後確実に差を広げられた感じがしました。
 左上のハサミツケはものすごい厚みを背景にした「打たれてみればなるほど」という手で、私としてはここは大人しく後退して他日を期する方が良いのではないかと思ったのですが、白反発。
 結果論ですが、やはり出が無理な手だったように思われ、そのあとはDZGが自然に打ち進め、最後は撲殺して終了になりました。



 第3局は、黒(趙治勲)全く奇をてらわず小林流でやってきました。
 1局目2局目がDZGのお手並拝見という感もあったのに対し、いよいよ本気できたという感じを抱きました。
 右辺は黒苦戦に陥りそうなコースも見えたのですが、取って凌いだなら多少は黒良かったのだと思います。
 白模様に入ってきた黒に対しての攻めもあまりうまくいかず、黒が押し切った形となりました。
 ニュースでは黒が逆転勝ちのように報じられていましたが、私は難しい局面が長かったとは思うものの、基本的にはずっと黒がよかったと思いました。
 最後は投了でしたが最後まで打っても多分黒勝っているでしょう。(実験の意味も込めてできる限り最後まで打って欲しかった気はしますが・・・)
 それと、井山六冠の解説はたぶん初めて聞いたのですが、普通に解説うまいと思いました。
 
 シリーズを通じての内容方面への感想は,以下の通りです。
 なお,私はアマチュアとしてはかなり強い部類ですが所詮アマチュアですし,コンピュータ囲碁にそこまで詳しいわけでもありません。



一、DZGが得意なのは大局観、読みは苦手
 私は以前,天頂の囲碁(DZGの前身であるZenがプログラムされている)を購入して何局か打ったことがあり、ある程度その棋風や弱点を見ています。
 「プログラムは大局観が苦手」みたいな意見は囲碁を知らない人によく見ますが、私から見ればそれは大きな間違いと断言してもいいように思います。
 プログラムが得意なのはむしろ大局観に属する部分で、部分的な死活の読みはむしろ苦手にしています。
 
 「対局」ではなく、「詰碁」に関して言えば、プロの名人クラス以上に答えを出せるプログラムはかなり前から既にあります。
 ところが、「詰碁」ではなく「対局」となると、長手数一本道な詰碁は、AGでも石塔シボリ読めなかったりということもあるくらいです。
 DZGでも、この問題を解決するには至ってはいませんでした。
 囲碁電王戦でも、第1局で見せたように、DZGに死活ミスやヨセミスが目立ち、部分の筋の問題がわかっていません。
 中国の「世界最強」柯潔もプログラムはヨセに弱点があるといっていたそうですが,おそらくは同じものを感じていたのだと思います。
 AGでも旧天頂の囲碁でも同じだったのですから,これは現在のコンピュータ囲碁が持っている宿命的な弱点と考えていいのではないでしょうか。今のところ人類の勝機はそこにある、といってもいいでしょう。

 現在の所DZGもAGも囲碁を読みつくしたという訳ではなく,「イメージ的にこう打てばいい」、と言う感覚で打っているため、部分に特化してでも正確な読みが必要な細部に至ると全局的なイメージでは読みの力が足りず、ぼろが出やすいのだろうと推測しています。
 人間は、こうした部分に特化した正確な読みが必要な時に、読みを部分に振り向けられるのが大きいのだと思います。
 更に、ヨセの局面でも、盤上に着点は200以上あったりするので、序盤と比べても読みがあまり楽にならず、却って「答えが出る」分ぼろがわかりやすくなるのでしょう。
 例えばプログラムでまだ見ぬ絵画の作者を鑑定する、と言うことになった場合,全体像から作者は横山大観なのかな?と思うことはできても、墨の質が違うとか紙の質が違うというような突っ込んだ違いには対応しきれない、と言うことなのではないかと思います。



二、撲殺モードは怖い
 天頂の囲碁でも,シノギ勝負(人間がしのぐ側)に持ち込むと突然恐ろしい力を発揮してくることがありました。
 人間同士で打ってればこんなの死にゃしないだろ,くらいの感覚で打てるのに,本当に恐ろしい勢いで殺しにかかってきて殺される…
 19路盤ではなんとかなるのですが、私が天頂の囲碁で13路盤で打っているとしょっちゅう起こる現象でした。
 第2局は,まさしくその流れだったように思います。
 第3局も,実際撲殺モードに出てくるのではないかと戦々恐々しながら見ていました。



三、中央重視の棋風
 人間の強い棋士は、隅や辺の実利を重視する場合が多いです。
 しかし、DZGの場合、対局中の形勢判断などを見ると中央を重視しているのがよくわかります。
 一流棋士で中央重視で有名なのは武宮正樹九段ですが,武宮九段でも隅や辺に代わることのできる柔軟な打ち筋をしており、棋風が弱点になってしまっているとは全く思えません。
 個人的にはDZGの中央重視の棋風は現状、弱点となっているようにも思えます。
 私と打っている天頂の囲碁も中央を重視していましたが、重視しすぎたせいかたまに何の脈絡もなく中央部にぽんと打つことがありました。
 DZGは流石に脈絡のない中央志向な手はなく、精度も私の使っている天頂の囲碁と比べて大幅に上がっているように感じましたが、それでも中央を重視する棋風であることには変わりがないように思いました。
 大体私が天頂の囲碁と打って勝つ時も、私が実利を取り、天頂の囲碁が中央を取り、私が周囲から弱点を突いてジリジリ削って勝つというのが多かったのですが、これは、囲碁電王戦第3局そのものとも言える展開です。
 そんなわけで、レベルが上がってディープラーニングを使ったDZGになってもやはり天頂の囲碁なんだな、という感触を抱きました。
 AGも5線カタツキを用いるなど中央志向の碁に思えますが、中央を重視する場合の「質」はAGの方が上のように思えます。



四、形勢判断が苦手
 プログラムは、相変わらず計算・形勢判断が苦手なようです。
 少なくとも、将棋プログラムの評価値同様に信頼していたら裏切られることは間違いありません。
 DZGは形勢判断が実際と比べて自信有り気なのです。(AGは形勢判断がよく分からない)
 第1回の囲碁電王戦、Zenが対局しているとき(特に江村さんとの13路盤対決)もそうでしたし私が天頂の囲碁と打っていてもそうでした。
 私が形勢悪くないはずなのに天頂の囲碁が評価値80で優勢をたたき出していることもありました。
 もちろん最後は私が勝っています。
 DZGの形勢判断は、プロどころか私が見ても「本当!?」というシーンが多く、DZGの形勢判断値が人間有利となった時にはほぼ人間勝勢が決まっている。
 以前「アドバンスド・囲碁ウォッチング」の話をしましたが、これではアドバンスドに役立つほどの形勢判断の実用化にはまだまだ遠いという感を抱きました。
 もちろん、解説棋士の判断と合わせ、プログラムがどう考えるのか、という視点から見る分には楽しいと思うのですが。










 総じて見ると、確かに恐ろしく強くなり、強い所はプロでも難しいだろうけど、弱い所も見られ、付け入るスキはありそう、と言う感じでした。
 スキの具合によっては力を発揮しきれず,全体的に見ての安定感に欠けているように思います。
 多分、日本のアマチュア棋戦にDZGが出場したとしても、優勝できるかは微妙ではないかと思います。
 地の棋力はもちろんアマチュアに入れば一番、私など一蹴されてしまうと思いますが、連戦のどこかでスキを出してしまうと、阿含杯に出場するような県代表上位クラスを相手にすればそこを突かれてしまい、優勝できないことは十分考えられると思います。
(なお,治勲先生なら多分優勝できると思います。)
 私の感想はざっとこんなものです。
 DZGが発売されるのか。
 発売されたとして私が使っているようなノートパソコンで十分性能が発揮できるのか。
 人間向けの「教師」や「解説」として役に立つのか。
 状況を見守っていきたいと思います。






最終更新日  2016年11月25日 19時24分14秒
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2016年04月20日
テーマ:囲碁全般(716)
カテゴリ:囲碁~碁界一般編
 井上名人(第3局のyahooでの誤植)ならぬ井山名人、七冠達成おめでとうございます。

 十段はかつて名誉称号を取った棋士がいない棋戦でもあり、この手の独占系では鬼門で、今回も最後まで残りました。

 囲碁界初の7冠ということで、メディアの注目も集めたようで、個人的にも私からふってもいないのに囲碁の話題が出たりしました。
 将棋界で羽生善治七冠が生まれた時(ちなみに井山七冠は当時の羽生名人と同い年)はまだインターネットが普及していなかった頃でしたが、当時インターネットがあればどちらが注目されたでしょうか。
 産経ニュースのトップ15のうち5は十段戦関係の記事。
 twitterのトレンドにはなぜか「井山六冠」が上がっています。七冠なのに。




 私個人としては、井山七冠が日本の囲碁界で本格的に活躍するようになったあたりで、私は生活上のいろいろもあり、囲碁記事をあまり書かなくなってしまいました。

 そんな中で、10年前に個人的に書いたあえて私個人的な黒歴史を引用させていただきますと「(負けた相手の古力に対して)それにしても差がありすぎる。定先でも不安になるほどだ」
 我ながらなんと偉そうな口を叩いているものです。

 少なくとも当時、私は井山七冠に対しては「タイトルもいくつかは取る有力棋士にはなるだろうけど、まあそんくらいじゃないか」などと考えていました。

 本当にすいませんでしたm(_ _)m。



 井山七冠の碁は、しばしば力碁、という言い方をされています。
 私個人的には、もちろん力碁という形容は正しいと思いますが、力碁にもカミソリと言われる坂田栄男名誉本因坊や殺し屋と言われる加藤正夫名誉王座のように色々なタイプがいます。

 そんな中で、近年の井山の碁について、私は「オオウナギと正面から格闘し、捕まえてしまうような碁」という印象を抱いています。
 柔道で言うならアリジゴクの巣より逃げ出せない強烈な寝技という感じでしょうか。

 しのぎ勝負大好きというわけでも攻めがきついという感じでもどちらでもなく、たとえしのぎに回ったとしてもねじ伏せるような相手に力を見せつけるような棋風、という印象を抱いています。


 本日の対局の棋譜を見直してみても、しのぎに回っていても伊田十段の読みをねじ伏せている。
 そんな印象で、井山七冠らしい碁で七冠になったと思いました。





 さて、私個人として、井山七冠に今後特に期待したいことがあります。
 それは、表題で書いた「新・鬼畜眼鏡」としての役目です。

 もちろん鬼畜眼鏡といっても性格が悪いからではなく、「褒め言葉としての鬼畜」です。
 (強すぎて「鬼」と呼ばれる例は囲碁界にも「鬼田強太郎」の異名を持った小野田千代太郎の例などもあります)


 井山七冠がいくら歴史に残る棋士であっても、世界的に見れば将棋のA級かB級1組くらいであり世界タイトルは小型棋戦のみなのも事実です。
 もちろん井山七冠が今後スターマリオ状態になってくれればなおよいと思いますが、それでも井山一人では限界があるでしょう。

 そして、現在の日本囲碁界においては、井山七冠が今回タイトルを奪った伊田八段を始め、一力遼七段、村川大介八段、余正麒七段など、井山七冠以外の若手勢の頑張りも重要になってきます。
 彼らは残念ながら世界的に見ればまだまだ、国内でも「これから頑張ってください」でしょう。
 たとえ井山七冠がいなくても、彼らが国内でタイトルをコンスタントに取れただろうか、と言われるとちょっと微妙に思えます。
 現に成果を出していることは評価するのですが。

 とはいえ、日本棋士が世界戦で反撃していくならば、「育てていくべき反撃の芽」であることは間違いないでしょう。



 将棋の羽生善治名人は、実際に七冠だったのは167日でしたが、それでも今日まで20年間第一人者の地位を退きません。
 そして、羽生名人目指して研鑽を積み、トップに列する力を得た若手棋士たちをタイトル戦挑戦手合でボロ負けさせる。
 時には優勢を奪われても最後は粘り負けさせる。

 そうしてことごとく壁となってその挑戦の多くを跳ね返しています。
 その結果、今ネット上で「鬼畜眼鏡」という綽名が流行っています。本人的に嬉しい綽名かはわかりませんが・・・
 羽生名人は、話している様子を見ると例えば加藤一二三九段や趙治勲九段のような「面白い人」というわけではありません。
 羽生名人が解説している様子を見ていても、他の棋士と比べて特別わかりやすい、特別凄いという印象を私は持っていませんし、おそらく多数意見ではないかと思います。
 そんな羽生名人が七冠達成から二〇年を経て今なお人気を保っている秘密はもちろん多々あるでしょうが、その一つがこの若手への壁という点なのではないか?と思っています。


 井山七冠が今後門下生を取ったり若手育成にどのように対応するかはわかりません。
 今後の本人の私生活の具合もあることでしょう。

 ただ、井山七冠には若手への壁として立ちはだかって欲しい
 やっとの思いで七冠に風穴を空ける立場に名乗りを上げた棋士をメッタメタに倒して、「さあ掛かってこいよ」「囲碁は最後に井山が勝つゲーム」くらいの姿を見せてほしい。
 そして、井山七冠に並ぶ・あるいは越えることができた棋士がいたら、もうそこは世界のトップと全く互角という世界になっている。


 私が個人的に今後の井山七冠に期待していることは、そういった所になります。
 

 もしかしたら、井山七冠が見出す七冠としてのあり方は、また違うものかもしれません。
 あくまでも一ファンの個人的な希望になります。
 ただ、もし井山七冠がこの記事を読むことがあったならば、こんなことを期待してる人もいるんだな、くらいに思ってもらえればと思います。






最終更新日  2016年04月20日 19時21分31秒
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