|
テーマ:哲学・思想(191)
カテゴリ:思想・哲学
《国際平和の理想と戦争の罪悪ということが国際社会におけるほど昔から喧(かまびす)しく叫ばれるところはないが、またまさにここにおけるほど力は正義なり(might is right)という恥知らずな命題が大手をふって通用して来た世界もない。(丸山眞男「近代日本思想史における国家理性の問題」:『忠誠と反逆』(筑摩書房)、p. 199)
《そうして屡々(しばしば)露骨な国家権力の発動がきらびやかな道徳的衣装をまとって現われ、そうした行動の其の意図を隠蔽する。しかも他方権力政治(power politics)ということがいわれる場合、その場合の権力とは単純な自然力ではなく1つの社会力である限り、そこに不可避的に心理的なモメントを包含する。権力行動への「大義名分」を、たとえミ二マムにせよ伴わない政治権力というものは存在しえない。その限りではモラルとか、理想とか、総じてイデオロギーは、けっしてたんに「力」の反射ないしはその外的粉飾にすぎない、として片附けることは出来ないのである。ここに政治権力の逆説的な性格がある》(同、pp. 199-200) 丸山氏の難渋な理屈を追い掛けることはしない。が、簡単に言えば「事は単純ではない」という当たり前のことに行き着く。 《「力は正義なり」がきわめて危険な、憎むべき命題であること、いうを侯(ま)たない。しかしその道に「正義は力なり」という原理に安心して手放しで安住して居られないところに政治社会の、とくに国際政治の悲しい現実がある。だから正義を国際社会に妥当させようと志す国家は少なくも「力を伴った正義」(right with might)を原理とすることを余儀なくされる。しかしその場合でも、はたして「力」のなかにひそむデモーニッシュな要素はつねに忠実に正義の僕(しもべ)としてとどまるであろうか。正義を遂行する手段としての力がいつしか肥大して目的に逆作用する危険性はないであろうか。かくして問題は限りなく複雑である》(同) 複雑な問題を単純化し短絡的に罵(ののし)るから迷路に迷い込むのである。「力は正義なり」とはいうものの、本当にそこに<正義>はあるのかということについて、具体的事例を踏まえ、1つひとつ解き解(ほぐ)していくことの方が余程生産的ではないのだろうか。抽象的議論を幾ら捏(こ)ね繰り回してみても、<問題は限りなく複雑である>という結論しか得られないだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021.12.10 21:00:07
コメント(0) | コメントを書く
[思想・哲学] カテゴリの最新記事
|