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テーマ:天皇論(160)
カテゴリ:思想・哲学
現代の進歩的思想家の中には、兆民が立憲君主政体を主張したのは、明治といふ時点においては天皇制を否定するのは時期尚早と考へたがためであつて、かれは時務論としては立憲君主論者であつたが、心中では天皇制否定の共和主義的政治哲学を秘めてゐたかのやうに思つてゐる人がある。 しかしそれは全く誤つてゐると思ふ。かれの政治哲学そのものが、1つの確固たる天皇制理論の構造の上に立つてゐたことは、かれのあらゆる文書によつて立証されるのであつて、その反対の解釈は、根拠のない妄想の上にゑがかれたまぼろしにすぎない。(葦津珍彦『天皇 日本の精神史』(神社新報社)、p. 194)兆民の本心など本人にしか分からないことだ。周りの人間が、どうこう言うことではない。兆民が、書き残したものからは、天皇を否定するような話は出て来ない。兆民は、共和制を志向したにしても、それはフランスのように旧体制を一掃しようというものではなく、天皇を戴(いただ)く共和制、すなわち、「君民共治」を主張したのだ。 憲法発布当時、中江家の学僕として兆民の言動を観察するのに最も近い立場にあったとされる社会主義者・幸徳秋水は、次のように書く。 《見よ、吾人は憲法に於(おい)て何の与へらるゝ所ぞ、議会は何の権能か有る、内閣は議会に対して何の責任なきに非ずや、上院は下院と同一の権能を有するに非ずや、内閣は常に政党以外に超然たるに非ずや、条約の訂結(ていけつ)は議会の与(あずか)り知らざる所に非ずや、宣戦媾和(こうわ)は民人の与り知らざる所に非(あら)ずや、予算協賛の権は上院の為に其半ばを奪はるゝに非ずや、若(も)し如此(かくのごと)くんば我議会は独り民権伸張の具となすに足らざるのみならず、他日徒(いたず)らに政府の奴隷たるに了(おわ)らんのみ、内閣の爪牙(そうが)たるに了らんのみ、堕落腐敗に了らんのみ、吾人は直(ただち)に憲法の改正を請はざる可らず》(幸徳秋水『兆民先生 他八編』(岩波文庫)、p. 25)※爪牙:手先 が、葦津氏は、これは兆民の考えではないと反論する。 多くの現代人が、兆民の歿後(ぼつご)に、その門弟の幸徳秋水が書いた「兆民先生」といふ追想文の中で、秋水が書いたままの言葉を兆民の思想だと即断して感心してゐる。けれども、私見によれば、これは憲法発布当時の兆民の思想なのではなくして、明治35年、憲法発布から十数年後の幸徳秋水の「帝国憲法」批判なのであつて、兆民の明治22年の思想なのではない。兆民は、憲法制定以前から、憲法については明確な一見識があつた。それは、かれの著書によつても知られる。 かれの理想とした憲法では、貴衆両院の国会の二院制といふ点では帝国憲法と同じであるが、とくに下院の権限をより強大にする思想があり、したがつて、帝国憲法に対しては、いささか不満だつた。この憲法に対する兆民の思想が、法学的知識に乏しい秋水に、漠然とした1つの印象を与へたのであらう。秋水は、その印象を想起して、兆民その人の歿後に、自分流の理論で、兆民の談話を作りあげたのにすぎない。兆民が生きて、この門弟の文を読めば、「ただ苦笑するのみ」であらう。兆民の憲法解釈を知りたければ、兆民その人の文を直視し吟味すべきであらう。(葦津、同、pp. 197f) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023.10.15 20:00:12
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