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テーマ:ナショナリズム(103)
カテゴリ:思想・哲学
《アメリカニズムを彩(いろど)る民主制と産業制の2色が、IT(情報技術)なるものによってさらに露骨に原色化されようとしているという現状にあって、日本人は、その2色旗を激しく振り回すことのほかには、新世紀へのどんな展望も見出してはいない。 その結果はといえば、混沌(こんとん)の度を低めるためのものであるはずの情報によって、状況がますます混沌とさせられる、という皮肉な現象である》(西部邁『ナショナリズムの仁・義』(PHP)2000年刊:前書き、p. 2) 情報には、その「意味」と「価値」がなければならない。そして情報に意味と価値を与えるのが、国の「歴史」であり「文化」である。が、「世界主義」(globalism)が持て囃(はや)され、国家が希薄化することとなって、情報の意味と価値が定まらぬまま独り歩きするようになってしまった。結果、情報が増えれば増えるほど、社会は混沌(chaos)の度を増すという仕儀(しぎ)と相成っているのである。 《具体的には、家庭、学校、地域社会、職場そして議会がかつてないほどの混濁に沈んだり狂乱に舞ったりしている。そういう惨状から脱け出そうとする「改革」の試みが、過ぐる十年における平成改革の顛末(てんまつ)をみればすぐわかるように、事態をいっそう改悪するときているのであるから、日本列島あたりの情報空間の動きは、疑いもなく、ヴィシアス・サークル(vicious circle)に、つまり悪循環にはまっているとしかいいようがない》(同) 更なる問題として、地球規模化に伴って情報の流通速度が増し、結果として、情報の意味や価値も目まぐるしく変化するようになったことが挙げられる。最早(もはや)情報をゆっくりと吟味するような時間的余裕はない。こうなってしまっては、社会は「情報の流れ」に抗(あらが)うことは出来ないだろう。 だからこそ、世界主義の本流から身を逸(そ)らすこともまた必要となる。言い換えれば、洪水のごとく止めどなく流れ出てくる情報を次から次へとただ鵜呑みにし続けるのではなく、時として必要と思われる情報を取捨選択し、しっかり吟味した上で、その意味と価値を見定めることが欠かせないということだ。 「情報弱者」となるのを恐れ、情報をひたすら追いかけ続けていては、価値判断することなく、ただ情報の流れに身を任せるしかなくなってしまうだろう。混沌とした社会の中にどっぷりと浸(つ)かってしまっては、自分が混沌の中にいることにすら気付かなくなってしまう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.06.14 20:00:12
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