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テーマ:教育問題(326)
カテゴリ:教育について
《教育の機会均等とはまさにそういう意味であって、すべての人びとに画一的な教育をすることではない。新しい教育とは、単に単線的な教育システムによって得られるのではなくて、もっと弾力的なシステム、教育の機会が生涯に開かれるようなシステムにしていくことが必要である。そうでなければ教育の多様化は不可能だし、また多様化した価値を実現していく教育は不可能である》(加藤寛「教育荒廃の根源にあるもの」教育の自由・競争・多様化を求めて:世界を考える京都座会編『学校教育活性化のための7つの提言』(PHP研究所)、p. 40) 今ある「教育機会の平等」とは、日本全国どこにいても、同じ教育が受けられるということであるから、言い換えれば、それは「教育の画一化」ということになる。が、教育を画一化すれば、下方平均化し、「教育の質」は最低限のものとならざるを得ない。だから平等以上の教育内容を求めるのであれば、塾に通うしかないということになっているのだ。 が、このような教育機会の平等では、お金を出さなければ良い教育は受けられないということになり、親の収入によって、受けられる教育の質が異なり、結果として、社会階層の固定化に繋がってしまう。そういう社会形態で良いのかという正義論的な問題もあるが、このような社会階層の固定化は、社会の腐敗へと繋がるという大きな問題がある。 Power tends to corrupt, and absolute power corrupts absolutely.– Lord Acton (権力は腐敗しがちなものであるから、絶対的権力は絶対に腐敗する)―アクトン卿 したがって、親がどれだけお金を掛けたかではなく、本人がどれだけ勉強を頑張ったかが問われなければならないのだ。どれだけ頑張って勉強したかが、進学や就職に繋がる形とならなければ、つまり、教育によって社会階層に「対流」を起こし、社会を攪拌しなければ、社会は淀み、活力を失ってしまうということだ。 《こうした観点から、教育に“自由”と“競争”と“多様化”を求めたいと考える。では、自由にして競争があり、しかも多様な教育はどのようにすれば可能だろうか。一言でいえば、学校自身あるいは学校相互間が競争する条件、さらに教師自身が競争するような条件をつくることである》(同) 競争とは、他者を蹴落とすことではない。より真(まこと)のもの、より善きもの、より美しいものに向けて互いに競い合うことである。 《教師には常に刺激が与えられなければならない。すべて人間はお互いに切磋琢磨し合うことによって成長していく。意欲のない教育には、このような切磋琢磨は生まれない。したがって、子供たちがそのような教育から逃避したくなるのは当然であろう》(同、pp. 40f) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.10.11 20:00:12
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