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テーマ:教育問題(326)
カテゴリ:教育について
《独占企業は、資金を効率的に使おうなどとは決して考えないし、その必要もない。そして自らの効率を高めることよりも、不足する資金を補うために.価格を上昇させるのと同じように、政府資金の拡大・投入をひたすら要求するのである。 フリードマンが『奇跡の選択』の中で述べたように、官僚化した学校教育は、いくら設備の投入を増やしても、教師の給料をあげても教育の質は低下し、落ちこぼれは増えるだけだと嘆いているが、まさに公教育の論理は、学校の官僚化、教育の官僚化、教師の官僚化を招き、人間教育から遠ざかっていくだけである》(加藤寛「教育荒廃の根源にあるもの」:世界を考える京都座会編『学校教育活性化のための7つの提言』(PHP研究所)、p. 47) 〈官僚化〉すれば、競争がなくなる。競争がなくなれば、努力する必要もなくなる。結果、組織は活力を失い、時代に取り残されることとなる。 逆に、〈官僚化〉を遡(さかのぼ)れば、「平等主義」に行き着く。平等が「絶対善」だと考えれば、競争が失われ、改善する努力が失われ、最終的に社会が不活性となり、時代の変化に付いて行けず、置いてきぼりにされてしまうということだ。 《これを是正するには、私学を中心として公立との競争を活発化させ、教育の投資配分について公・私に差をなくし、公立という財政的に安易な存在を縮小し、子供たちが公・私の別なく同じ月謝で勉強できるようにしていくことである。 学校間の競争が高まれば、教師は意欲を燃やし、銘柄校の裾野は広がっていくことになる。私主官従に教育の方針を転換することこそ、今、文部省に求められているのである》(同) 人為的に競争を作り出すこと自体に反対するわけではないし、現状を変えるためにはそれも必要だとは思われるけれども、根本問題として、「平等主義」に何某(なにがし)かのメスを入れなければ、せっかくの努力も水の泡となってしまい、結局は「元の木阿弥(もくあみ)」となりかねない。 《フリードマンによれば「(アメリカの)現在の教育論争では、子供がどんなにひどい教育を受けているかにもっぱら焦点が絞られている。わずかの例外を除けば、教育改善の勧告案には、現行制度が動かしがたいものだとする見方が強く、現状を変えようという考えは全く示されていない。 民主主義は、読み書きができ.教養もある市民がいてこそ機能できるのだから、初等・中等教育に政府が財政補助をするのは当然だ、という弁解も成り立つ。アメリカ建国の初期なら、このような意見も説得力があっただろう。数千万の移民が新天地にたどりつき、国民の大多数が低い所得水準にあえいでいた頃、教育を支えるのは政府以外になかった。 しかし、今日ではその弁解の根拠は薄弱である。なぜなら、今ではほぼ誰もが読み書きができるし、教育費を税金の形で間接的に払うよう義務づけなくても、国民の大多数は自分の子供の教育費くらい負担できる余裕があるから」だとなる》(同、pp. 47f) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.10.18 20:00:17
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