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テーマ:教育問題(326)
カテゴリ:教育について
《ところが文部省の考え方は、依然として国公立中心で、あえていえば、私学はその落ちこぼれを教育していればいいという考え方に立っている。 これは、いま文部省の組織の98%が国立大学を中心につくられているという点を見ても明らかである。 前述したように、これからの学校教育には“自由”と“競争”と“多様化”が必要だという視点に立つならば、やはり民間による学校教育を中心として、国公立はむしろその補完的な立場にとどまるというのが、これからの学校教育のあり方であろう。 これは、ちょうど工業化時代に官主導でやってきた経済が、いまや民聞主導に変わり、競争原理に基づいた民間の活力を官は補完する形で存在するという、新しい時代の考え方と一致する》(加藤寛「教育荒廃の根源にあるもの」:世界を考える京都座会編『学校教育活性化のための7つの提言』(PHP研究所)、pp. 49f) 大学に競争原理が働かないのは、大学入試で学生を選別した後、心太(ところてん)式に押し出して卒業させるだけで、大学独自の学業や研究を疎(おろそ)かにしていることが大きいように思われる。言ってみれば、大学は、受験偏差値以上の評価を獲得しようとする努力を怠ってきたということであり、非競争的なゆるゆるの体質が染みついてしまっているのではないか疑われるということだ。 これを是正するためには、入試を広き門にして、卒業を厳格にするという変革が必要となるのではなかろうか。そのことが、学生のみならず、教員にも勉励研鑽を強(し)い、学生及び教員の成長こそが大学の評価となって表れることが期待される。そのような土壌が育まれてこそ初めて大学が「競争」することも可能となるであろう。 《現行制度に代わる新しい教育制度ができれば、子供の教育に対する親の監督権がもっと強まり、ひいては学校教育に競争が持ち込まれるだろう。だが競争は教育を混乱させるものだろうか? 現在の教育論争が初等・中等教育に集中し、高等教育にはあまり触れられていない点に注目してもらいたい。それは、高等教育の学生数が初等・中等教育より少ない(約4分の1)せいでもある。しかし、もっと重要な理由は、私立大学の数が多いため高等教育では競争が大きな役割を果たしていることにある。この競争の原理のために、高等教育の状況は初等・中等教育の場合ほど混乱を深めてはいないのだ》(ミルトン・フリードマン『奇跡の選択 自由経済をはばむものは何か』(三笠書房)加藤寛監訳、pp. 233f) 米国の大学は、元々入学を広くし、卒業を厳格にするというものであったから、競争原理が一定働いていたと言える。その点が日本の大学とは異なる。 欧米に追い付け追い越せの時代は、既存の知識をどれだけ詰め込むかが重要であり、日本型の大学受験方式が有効であったと言える。が、欧米に追い付いた今、日本に求められるのは、自ら課題を設定し、何某かの答えを出すことである。それを主として担うのが大学であろうことは論を俟たないのであって、大学こそが、いの一番に改革を求められているということなのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.10.20 20:00:17
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