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カテゴリ:故事成語
「鍋料理の肉の味をみようとして、鍋の肉を全部食べなければわからないと言うことはない。
そのなかの一切れを食べれば、鍋の中の肉の味を知ることができる。 また、湿気を吸わない鳥の羽と湿気を吸う炭を天秤にかければ、空気が乾燥しているか、空気が湿気を帯びているかを知ることができる。 これらのことは、小さな兆しを見て大きな事を悟って知ることである。 また青桐の葉が1枚落ちるのをみれば、年の暮れが近づいたことがわかるし、水がめの水が凍っていれば世の中全体が寒くなったことを知ることができる。 このように身近な些細な出来事から遠いことを推察する方法がある。」 これは、前漢の武帝の頃、淮南(わいなん)王・劉安(B.C 179 ~ B.C 122)が学者を集めて編纂させた思想書である淮南子(えなんじ)のなかの「説山訓」のなかの文章である。 このなかの、「一葉の落つるを見て、歳のまさに暮れなんとするを知り、瓶中の氷をみて、天下の寒きを知る」 この言葉がもとになり、「一葉落ちて天下の秋を知る」ということになったようだ。 「淮南子」では、落葉が早い青桐(あおぎり)の葉が1枚落ちるのを見て、秋の来たことを知る。 という表現を使い、わずかな現象から将来の大きな動きを予知することが出来るという意味である。 ところで 織田信長は日本国のイノベーターといえます。 織田信長は天性の勘だけをたよりに戦国の世を生き残ってきました。 信長は、その事件の兆候を察知することが出来なかったのであろうか? 本能寺の変が起きたのは、1582年6月21日のことである。 この歴史上の大事件が起きたのがちょうど今頃の季節のことでした。 織田信長は明智光秀の謀反を想像してなかったのであろう。 そうでなければ、信長の護衛が500人というのは考えられないことである。 日本国の王になったと思っていたのか? 信長自身の慢心が招いた結果ということと。 明智光秀が信長を殺した原因は、明確になっていません。 怨恨説、黒幕の陰謀説、など諸説入り乱れて明確になっていません。 いずれにしても、織田信長がこの時代を改革したのは事実です。 あと10年生存していたらどうなっていただろうか。 秀吉も家康も、もしかしたら殺されていたかもしれません。 歴史にIF(もし)はありませんが、その後の歴史の変動に興味があります。 信長の護衛が5000人いたら? もしそうなら、光秀は本能寺の変を起こさなかったであろう。 信長が徳川家康が築いた幕藩体制というシステムのようなものをつくる事ができなかったら? 日本の戦国群雄割拠の時代はもっと続いたに違いない。 結果は、西洋列強の植民地政策の餌食になっていたことだろう。 日本という国の評価で、西欧の国の人の印象で強いのはアジアで唯一植民地になったことがない国だそうです。 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と戦国時代のナンバー3がいます。 最後に生き残ったのが徳川家康でした。 「人生は重き荷物を背負って歩む如く」という言葉を残しました。 我慢強いからこそ、最後に勝ったのでしょう。 その資質は幼少時代の今川家での人質時代に作られたのです。 徳川家康は幕藩体制システムを構築し、参勤交代、鎖国政策で幕府の力を維持しました。 このシステムを作っていなければ、各大名も貿易で国力を増強してクーデーターを起こしていたでしょう。 だからこそ1603年から1868年の265年の長きにおいてその体制を維持するのは難しかったはずです。 日本人の勤勉さという資質は長きにわたる封建体制化で培われました。 勝手気ままに生きることができなかったのがその理由です。 日本人というのは、我慢強く、創意工夫する能力が高い。 火縄銃が種子島に伝来しました。 島の刀工は殿様の命により、瞬く間に実物とそっくりにコピーされた種子島オリジナル火縄銃を作り上げたことからもうかがいることが出来るでしょう。 日本刀の製作技術がすこぶる高かったということです。 織田信長全盛の時代では銃の保有量が世界一だったという話を聞いたことがあります。 資源がない国は技術で勝負するしかない。 日本人としてプライドを持とう。 大和民族は優秀な民族である。 平和ボケ日本は嫌いです。 侍ニッポン、頑張れ。 サッカーでも意地をだせ。 「鳴かぬなら、殺してしまえ不如帰」 信長 「鳴かぬなら、泣かせて見せよう不如帰」 秀吉 「鳴かぬなら、鳴くまで待とう不如帰」 家康 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012年03月25日 18時13分27秒
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