北区本郷町 高林寺の石仏
ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら土呂町の北は本郷町になります。今日は真言宗寺院高林寺の石仏を見てみましょう。高林寺 北区本郷町1398[地図]産業道路の本郷町交差点からすぐ東の旧道「原市道」に面して真言宗寺院高林寺の入口があった。山門は閉まっているが、横の駐車場の入口から境内に入ることができる。山門の正面に鐘楼が立ち、右のブロック塀の前に多くの石塔が並んでいた。植え込みの向こうに四基の石碑。敷石奉納を記念して建てたもので、おおむね新しい。その奥に大乗妙典六十六部供養塔 宝暦11(1761)角柱型の石塔の正面 阿弥陀三尊種子の下「奉納大乗妙典六十六部供養塔」両脇に造立年月日。左側面に吉野本郷村とあり、個人の名前が刻まれていた。続いて馬頭観音塔 文政6(1823)角柱型の石塔の正面「上岡馬頭觀世音菩薩」風化が著しく一部剥落も見られる。塔の右側面に造立年月日。左側面に吉野本郷村。下部が土に埋もれた台の正面に馬持講(中)村 世話人 講元とあり、四名の名前が刻まれていた。その隣 地蔵菩薩塔 安永2(1773)反花付きの台に角柱型の石塔、敷茄子、蓮台を重ねた上に、正面に地蔵菩薩立像を浮き彫りにした駒型の石塔が乗る。敷茄子の下の石塔の正面「奉造立地蔵菩薩」右側面に本郷村施主、世話人、各一名の名前。左側面に願文が刻まれている。続いて 光明真言供養塔 嘉永4(1851)四角い台の上の角柱?型の石塔の正面 弘法大師坐像の下に「光明真言供養塔」風化のために塔の上部が大きく破損。塔の右側面に造立年月日。その横に足立郡吉野本郷村。左側面に遠近村々寄進。台の正面に願主 五人の名前。さらに講中 村中と刻まれていた。続いて百ヶ所観音供養塔 文化4(1807)四角い台の上の角柱型の石塔の正面、阿弥陀三尊種子の下「奉納秩父西國坂東供養塔」塔の右側面に造立年月日。左側面に武刕足立郡吉野本郷村。台の正面に11名の名前が刻まれている。その左に庚申塔 寛延3(1750)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。江戸時代中期の充実した内容の庚申塔。三眼吊り目の青面金剛、かっと口をあけ忿怒相。頭上のこぶこぶは髪を細かく分けて結っているのか?腰のあたりにすがりつくショケラば髪をつかまれて首がねじ切れそうだ。彫りは細かく丁寧。足の両脇に二鶏を半浮き彫り。足元に二匹の邪鬼。腕組みをして正面向きに並び頭を踏まれて白目をむく。その下の三猿は足を崩しておもいおもいに座っていた。このあたりの自由な表現は岩槻の庚申塔と通ずるものがあって楽しい。塔の右側面に造立年月日。左側面に吉野領本郷村。横から見ると、青面金剛の足は塔から離れて、裏に空間ができていた。続いて 六地蔵菩薩塔 寛政3(1791)小堂の中に丸彫りの六体の地蔵菩薩立像が並ぶ。蓮台の下の石塔の正面、右端の地蔵菩薩塔には武刕足立郡吉野本郷村。その横に造立年月日。右から2番目「奉造立六地蔵尊」善男子善女人 二世安樂為也。左端 願主講中三十人。朝日山法印祐本と刻まれていた。最後は地蔵菩薩塔 享保5(1720)四角い台に反花付き台を稼子、その上に重厚な蓮台に立つ大きな丸彫りの地蔵菩薩像がのり、総高3m近い享保の大地蔵。ふくよかな尊顔で見事な彫りだが、錫杖を持つ右手だけがそっくり欠けていた。反花付き台の正面中央に「奉造立」右に男女講中、左に二世大願。右側面に延命地蔵菩薩経の偈文。さらに造立年月日。左側面には中央に本郷村、右に講中八十八人、左に講元とあり、二名の名前が刻まれている。本堂の右脇に歴代住職の墓地があった。山門前に立っていた解説板によると、江戸時代高林寺では寺子屋が開かれ、墓地に二基の筆子塔があるという。右奥に筆子塔 嘉永元年(1848)卵塔の正面 梵字「ア」の下に「権大僧都法印眞阿 不生位」両脇に命日。敷茄子の下の角柱型の石塔の正面に施主 筆子中と刻まれている。墓地奥の右 筆子塔 文化4(1808)卵塔の正面 梵字「ア」の下に「権大僧都法印宥全」両脇に命日。石塔の正面にその出自、行年五十二歳。左側面に惣筆子中。さらに世話人の名前が刻まれていた。