見沼区大谷 北部の石仏
ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら前回に続き大谷、今日は残りの三か所、北部の石仏を見てみましょう。氷川神社南交差点 見沼区大谷1505[地図]県道65号線と東楽園通りの交差点のすぐ北の三差路から細い道を北西に向かい、道なりに300m近く進むとその先、右手に大きな銀杏の木が見えてくるあたりで道は三つに分かれる。右折すると鳥居が立っていてその先は大谷氷川神社へ、真ん中の道は大谷中学校の東へ、左の道を進むと大谷小学校の西で「大谷中通り」にでる。左の二本の道の交差する空き地に「成田山不動堂」その右脇の立木の向こうに二基の石塔が並んでいた。笠とサイズはやや異なるが、同じような印象を受ける二基の青面金剛庚申塔。どちらも江戸時代後期に造立されたものだった。左 庚申搭 天保2(1831)四角い台の上、立派な唐破風笠付き角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。彫りは細かく技巧的。怒髪の中に蛇がとぐろを巻き、三眼忿怒相の青面金剛は頭上に髑髏を乗せる。その手首には腕輪。小さなショケラは足を折り曲げて吊るされていた。足元に二匹の邪鬼。片方は口を閉じ、片方を口を開けて、狛犬のように「阿吽」の形。その下に自由な三猿。右の見猿はやや外向きに座り、中央の聞か猿は前向きに足を閉じて座る。左の言わ猿は後ろ向きに座り、頭をのけぞらせている。後ろ向きに座る、または寝そべる猿は片柳で二件、万年寺の天保12年塔と大宮聖苑南の文化7年塔で、また二匹の狛犬のような邪鬼も片柳万年寺と大宮共立病院西の寛政10年塔で見てきた。これらは同じ系統の石工、おそらく岩槻の田中武兵衛一門の作品と思われる。青面金剛の怒髪の中の髑髏もこのグループの作品の中でいくつか見てきたものだ。塔の右側面に造立年月日。左側面に大きな字で南部領 大谷村と刻まれている。台の正面に十八名の名前。左側面に十七名の名前。右側面には世話人三名と十二名の名前が刻まれていた。世話人含めて講中五十名になる。右 庚申塔 文化3(1806)四角い台の上、宝珠を乗せた笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。輪光背を負った三眼忿怒相の青面金剛。怒髪の中は蛇か?左足をやや前に出して立つ。彫りは立体的で装飾性が高い。特に瑞雲に乗った日月、細かい文様の付いた衣装が素晴らしい。この青面金剛像の袴の文様について分類研究されている五島さんによると、これも田中武兵衛一門の仕事ではないかという。足元に二匹の狛犬型邪鬼。両脇に二鶏を半浮彫り。その下にやはり自由な三猿。左の聞か猿は足を開いて座り体はやや外向きに、左手で耳をふさぎ右手を上げる。中央の言わ猿は足を折り曲げてややはすに座り両手で口を押える。右の見猿は足を揃えて内向きに体育座り、左手を目に当てて右手に桃果を持っていた。このあたり左右両塔の雰囲気はよく似ている。塔の左側面に武州足立郡 南部領大谷邑。その下に世話人合わせて十名の名前。右側面に造立年月日。その下、右端に講中 西福寺とあり、続けて九名の名前が刻まれていた。大谷中学校東路傍 見沼区大谷1686[地図]氷川神社参道入口近くの二つの庚申塔の前の道を北へ進むと、やがて大谷中学校の東で「大谷中通り」に出る。その角の所に小堂が立っていた。写真右のカーブする道が「大谷中通り」、左の細い道が氷川神社入口から来た道になる。小堂の中 庚申塔 享保15(1730)駒型の石塔の正面彫りくぼめて、外に日月雲、中に 青面金剛立像 合掌型六臂。頂上が平らな臼型の髪型、腕の付き方がH型、「川口型庚申塔」である。「川口型」の造立は享保期~宝暦期に限られ、これはその初期の作品。顔はややつぶれているが三眼か?髑髏の首輪をしていた。上の手の持物、右手に法輪、左手に矛というのは普通と逆で、相当珍しい。足元にまるくなってうずくまる全身型の邪鬼。その下両脇に二鶏。さらに三猿。中央が正面向き、両脇が内を向く構図は「川口型」の定番だが、両脇の猿は足を投げ出して座るのが普通、こちらは左の言わ猿は正座していて、これもめったに見ない。塔の右側面「奉造立供養青面金剛尊像」右脇に薄く天下泰平 五穀成就 萬民豊樂。左脇に「現當二世悉地成辨祈攸」最下部に五名の名前が刻まれている。左側面に造立年月日。その脇に大谷村庚申待講中敬白。最下部に願主を合わせて五名の名前が刻まれていた。大谷公園南交差点 見沼区大谷1766[地図]庚申塔の小堂のある角からさらに大谷中通りを七里方面に進む。50mほど先の交差点の角に二基の石塔が立っていた。左 馬頭観音塔 大正3(1914)駒型の石塔の正面「馬頭観世音」右脇に造立年月日。左脇にも銘があるようだがよみとれない。塔の左側面は無銘。右側面に「伏見宮殿下御下賜 英國鹿栗毛・・・・」と刻まれていた。英国産の馬というと農耕馬とは思えない。どういったいきさつで下賜されたのだろう?右 不明塔 享保11(1726)大きな駒型の石塔だが、その正面は風化のためか銘は全く見当たらない。塔の右側面に造立年月日。その下に助力とあり一名の名前。左脇に武蔵州足立郡南部領。その下中央に大きく大谷村中。左側面、上部に大きく助成村とあり、その下に蓮沼村、中川村、片柳村、中丸村など近隣十二の村の名前が刻まれていた。 いったい何の供養塔なのか、銘が無いのではっきりしないが、これだけ多くの村々の協力があったということから考えると「橋供養塔」あるいは「石橋供養塔」の可能性が高いのではないだろうか。現地のすぐ北に加田屋川が流れている。