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私家版 さいたまの石仏

私家版 さいたまの石仏

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☆いたやま☆

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自転車とカメラが趣味で、気軽に写真を撮っています。
お地蔵様や庚申塔などの石仏にはまってしまいました。

さいたま市の石仏探しの参考書として
「石の文化財-浦和の石造物」浦和市教育委員会
「郷土の石佛 写生行脚一期一会」酒井 正

私家版さいたまの石仏のホームページ版は
http://saita-seki.jimdo.com/

2013.11.19 ブログ開設
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2015.07.06
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カテゴリ:川口市の石仏
ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら

昨日のまとめに入ります。
20基の庚申塔を並べて見て気づくことは次のとおりです。

○ドクロの首輪は14基があり、6基はなし。20基中16基。この形に必須とまでは
 いえないが かなり高い確率だと思われる。
○邪鬼はずんぐりした猫がうずくまるような姿勢。頭が左で顔だけ正面を向く。
 例外は7.妙蔵寺の享保18年の庚申塔。こちらだけ頭が右になっている。
○三猿は真ん中の聞か猿が正面向き。両脇の二猿は中を向き足を投げ出している。
DSC_0132.jpg
 源左衛門新田会館 元文2年の庚申塔
DSC_0338 (2).jpg
 例外は20.興禅院の宝暦6年の庚申塔。左と真ん中の猿は正面向、右の猿だけが
 中を向き、体を後に倒している。
○期間は享保11年(1726)~宝暦11年(1761)の36年間の間に限定される。
○合掌型は1726~1737に多い。1728~1731の4年間ショケラ・鈴型が集中的に
 出現する。1740~1761は合掌型は二点のみでショケラ・鈴型が多い。この場合
 右手にショケラ、左手に鈴を持つのが一般的だ。例外が11.良光院の元文5年と
 20.東福寺の宝暦11年の 二つの庚申塔。右手に鈴、左手にショケラを持つ。
 「川口型」以外でよく 見る剣・ショケラ持ちの場合はショケラは左手が普通。
 この違いが面白い。 
○上と関連して「川口型」庚申塔に剣・ショケラ持ちは一基もない。
○14.笹根稲荷社と15.新郷若宮公園東路傍、この二つの庚申塔はよく似ている。
 造立年が一年違い。瑞雲、立体的な腕の形どな、細部までほぼ同じようだ。
 同じ石工によるものだろうか?
○地図に落としてみると、結構広い地域にわたっている。さいたま市のように
  ひとつの地域に集中しているような傾向はない。

さて、さいたま市の「川口型」と合わせて考えてみよう。

◎ドクロの首輪については同じような傾向。邪鬼、三猿の特徴も共通だ。
◎ 期間について。さいたまは享保4(1719)~宝暦2(1752)の33年、川口は
 享保11年(1726)~宝暦11年(1761)の36年間とほぼ同じ時期といえるが
 さいたま市のほうが若干先行していて川口のほうが遅くまで見られる。
 二つの地域を合わせると1719~1761の43年間となる。川口市で多く
 見られるので、川口市のほうが本場と思って「川口型」としていたが、
 もとはさいたま市という可能性がある。
◎1761年の戸塚 東福寺の庚申塔を最後にこのタイプの青面金剛はその姿を
 消してしまう。43年間のみの存在。それは何を意味するのだろうか?
◎地図を良く見ていたら川口市内の分布についてある傾向に気がついた。
 前川町・芝下・安行領根岸・中青木・辻・三ツ和。この地域はいずれも
 芝川の流域である。川口西部では「川口型」庚申塔は芝川流域でしか
 見られない。芝川をさかのぼると東浦和(八丁石工の八丁河岸)に至る。
 いっぽう、神戸・新井宿・戸塚・安行領家・安行原・東貝塚・峯・本蓮
 榛松。こちらは東浦和(八丁)から赤山街道、岩槻街道で結びつく地域で
 昔から交易などもあったものと考えられる。

[ちょっと乱暴だが推論]
この「川口型」庚申塔はもともと東浦和、八丁石工の系統の仕事で芝川の水運、
街道の交通をもって川口のほうまで広まっていった。その石工の仕事は本人か
親子二代に渡っていて、そのあとは継承されなかったため、急激にその姿を
消すことになった。

さすがにこれだけの材料で上のような推論は乱暴かもしれません。そういった
可能性もあるということで・・・・・芝川下流の足立区、街道の先の草加市に
「川口型」庚申塔はあるのでしょうか?興味は尽きません。





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Last updated  2015.08.24 09:18:35
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