私家版 さいたまの石仏

2016/01/17(日)19:24

板橋区小豆沢 龍福寺の石仏 その2

東京 板橋区の石仏(80)

ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら 前回に続き龍福寺の石仏を見てみましょう。 龍福寺 板橋区小豆沢4-16-3 山門を入って右側には最上部に大日如来坐像を頂き、その下に二段に渡って多くの石塔が並べられていた。数えてみると下段、上段とも十基の石塔、大日塔も合わせると二十一基の石塔になる。その中に庚申塔が十二基もあり、帰ってきてからの写真の整理が大変だった。石塔の数が多いので、今回は一つの石塔ごとに写真は各一枚づつとする。 下段、中央(大日塔の向いている方向を正面とする)から見てゆこう。庚申塔 享保4(1719)頂上に立派な宝珠を乗せた唐破風笠付角柱型の本格的な庚申塔。正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。足の両脇に二鶏。足下にずんぐりとした邪鬼。下の台の正面に三猿を彫る。三猿の右脇に講中廿三人、左脇には願主了音?塔の右側面に武州豊嶋郡小豆沢村、その脇に造立年月日が刻まれていた。 右隣 庚申塔 元禄年間 板碑型の正面を二段に彫り窪めて、上部に日月雲。窓部の中、青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。足下に二鶏と邪鬼。三猿はその下の別室に彫られている。枠部右「奉造立庚申供養二世悉地成就所」左枠に元禄とあるがその下の年号は読み取れなかった。下部には小豆沢村施主。三猿の下の平らな部分に十数人の名前が見える。 3番目 庚申塔 正徳2(1712)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。下部に二鶏・邪鬼・三猿。右脇「奉造立庚申為二世安樂也」左脇に年号。その下に武州豊嶋郡小豆沢村。こちらも三猿の下に講中とあり十数名の名前が刻まれていた。 4番目 庚申塔 元禄3(1690)舟形の光背を持つ。日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。足下の二鶏は線刻。芋虫のような邪鬼。比較的大きな三猿を彫り、その下の部分の左右両脇に結衆敬白。その間には十数人の名前が刻んれている。光背右「奉造立庚申待供養諸願成就」脇に武州豊嶋郡小豆澤村。光背左に造立年月日が刻まれていた。 ここまで四つの庚申塔が続いた後、5番目は 大乗妙典六十六部供養塔 年代不詳。正面「奉□大乗妙典六十六部日域順國」上部に天下泰平・國土安全。下部 右に願主 和泉國南部中井邑 欽来。左に武蔵國足立郡浮間村 □西。二人の願主はどういう関係だろう? 6番目 角柱型の庚申塔 年代不明。正面日月雲「庚申塔」側面が狭く他の銘は確認できない。 7番目 板碑型の庚申塔 天和4(1684)中央「奉造立庚申供養二世悉成就也」右脇に武州豊嶋郡小豆沢村一結衆。左に造立年月日。この庚申塔は手前の木の陰になっていて文字が読みにくい。 8番目 板碑型の庚申塔 万治3(1660)中央上部 「品合」これは意味不明。その下 「中」を四方から「天」という文字が囲む。宇宙を表すのだろうか?その下に「奉唱念庚申供養一基」右脇に武州豊嶋郡小豆沢村。左脇に造立年月日。下部両脇に渡って願主敬白と刻まれていた。 9番目 駒型の庚申塔 正徳4(1714)上部に梵字「タラーク」日月雲 青面金剛立像合掌型六臂。足の両脇に薄く二鶏。邪鬼は右側に頭をもたげている。その下には正面向きに三猿を彫る。右脇に「奉造立庚申供養所願成就二世悉地攸」左脇上部に造立年月日。下部に小豆沢村 施主敬白と刻まれていた。 下段最後は駒型の庚申塔 元禄7(1694)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。右脇「奉造立庚申供養二世悉地成就所」左脇に造立年月日。青面金剛の足の両脇には二鶏。足下の邪鬼はうつぶせにのびている。比較的大きな三猿の下、武州豊嶋郡小豆沢とあり十数人の名前が刻まれていた。 上段正面 庚申塔 寛政6(1794)梵字「ウーン」の下、美しい文字で「庚申塔」右脇に造立年月日。左脇には武州豊嶋郡志村講中と刻まれている。日月雲も二鶏も三猿もなく、シンプルな文字塔だ。 2番目の聖観音立像は個人の墓塔。3番目 庚申塔 天保7(1836)迫力のある日月雲の下「庚申塔」下の三猿がいい。彫りは細かく、それでいて力強く、坐像だが動きが感じられ生き生きとしている。塔の右側面に造立年月日。左側面には中内出?講中と刻まれていた。 4番目 順礼供養塔 宝暦13(1763)正面 阿弥陀三尊の梵字の下「奉順禮坂東西國秩父供養」百観音霊場順礼の記念塔だろう。塔の右側面上部に造立年月日。両側面の下部にそれぞれ十人ほどの名前が刻まれている。 続く四基の石仏はいずれも個人の墓塔。寛文12(1672)から宝暦10(1760)の銘があった。 9番目 板碑型の庚申塔 貞享3(1686)上部の形が変わっている。中央日月雲の下「奉供養庚申待二世悉地成就」施主敬白。右脇に武州豊嶋郡小豆沢村、左脇に造立年月日。下部には大きめの三猿が彫られている。その隣10番目、上段最後の石塔は貞享2(1685)釈迦如来立像。こちらは個人の墓塔だった。 最上部に大日如来坐像 宝暦7(1757)首のところに補修の跡が見える。塔の正面中央「八日講所願・・・」下部が見えないが「所願成就所」あたりだろう。その右脇に造立年月日。塔の左側面には浮間邑講中とあり二十名ほどの名前、右側面にもやはり二十名ほどの名前が刻まれていた。

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