私家版 さいたまの石仏

2020/06/09(火)20:22

新座市馬場 蓮光寺と宮前墓苑の石仏

新座市の石仏(33)

ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら 今日は馬場の最終回です。これまで県道36号線の東を見てきましたが、今日は県道西の地域、蓮光寺と宮前墓苑の石仏を見てみましょう。 蓮光寺 新座市馬場1-9 馬場3丁目の稲荷会館から県道へ出てきて、そのまま西に進むと蓮光寺の前に出る。整備された駐車場の奥に山門が立ち、その正面に本堂が見える。 境内に入って山門の右脇に板碑が並び、その隣に六地蔵の小堂が立っていた。先日紹介した畑中の東福寺も同じような並び方だった。 丸彫りの六地蔵菩薩立像。像、蓮台、石塔、台座、六基はほぼ似たような様子だが、お地蔵様の顔を見ると、真新しいもの、風化が進んだもの、頭部前面が剥落したものとまちまちだ。 蓮台、石塔部もかなり風化が見られる。六基の石塔の正面の銘を見てみよう。右端 延享2(1745)と宝暦11(1761)の命日を持つ二つの戒名、2番目には延命地蔵経の偈文が刻まれていた。 3番目 蓮台の一部が剥落。石塔には安永2(1773)明和9(1772)の命日を持つ二つの戒名。4番目には明和5(1768)明和3(1766)の命日と戒名が刻まれている。 5番目、蓮台も風化が見られるが、石塔のほうの剥落が目立つ。他の石塔とちがい正面に一つの戒名、右側面奥に武州新座郡 片山村。手前に天明六(1786)こちらは命日だろう。左端は享保10(1725)元文元年(1736)二つの命日と戒名が刻まれていた。六基全体で見ると、1725年から1786年の紀年銘、かなり開きがある。六基が同時に造立されたのではない可能性もありそうだ。いずれにしても六地蔵として揃ったのは天明6年以降、寛政期あたりだろうか。 宮前墓苑 新座市馬場4-8 蓮光寺から細い道路を南へ200mほど進むと、三差路のところに宮前墓苑があった。写真左の道は県道36号線大橋交差点付近に、右の道を道なりに登ってゆくと水道道路に出る。三差路の角の所は空き地になっていて、墓地のブロック塀の外に角柱型の石塔が立っていた。 馬頭観音塔 文政8(1825)石塔の正面、上部に馬頭観音菩薩坐像。その下に「馬頭觀世音」塔の右側面に造立年月日。下の台の正面に片山講中と刻まれている。 舟形に彫りくぼめられた中に浮き彫りされた三面忿怒相、八臂の馬頭観音菩薩坐像。頭上にくっきりと馬頭。ふっくらと馬口印を結ぶ。江戸時代後期になると馬頭観音塔も文字塔が多くなってゆくが、そんな中でこちらは講中造立の本格的な馬頭観音像塔である。 正面に「片山講中」と刻まれた台の両側面には、合わせて30名ほどの名前が刻まれていた。 三差路から左の道を進むと右手に墓地の駐車場がある。その外の塀の前に庚申塔 元禄6(1693)大きな駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。 白カビに覆われているが、彫りは明快。像の両脇に造立年月日が刻まれていた。 足元に頭を右に異形の邪鬼が寝そべる。その下にしっかりとリアルな三猿。三猿の下の部分に8名の名前が刻まれている。 墓地の真ん中あたりに丸彫りのお地蔵様が立っていた。 地蔵菩薩立像 宝暦4(1754)頭がやや傾いているのは補修されたものか。風化は見られず、錫杖、宝珠ともにきれいに残っている。 石塔の正面 梵字「カ」の下に「奉造立地蔵大菩薩 爲講中二世安樂也」右側面に造立年月日。左側面には武州新座郡片山郷 辻村、願主 惣村中と刻まれていた。 地蔵像の後 大乗妙典供養塔 明和9(1772)角柱型の正面を彫りくぼめた中、梵字「サ」の下に「奉納大乗妙典六十六部 日本廻國供養攸」上部両脇に天下泰平 國土安全。右下に武州新座郡片山辻村、左下に廻國行者浄運謹言。塔の両側面には造立年月日が刻まれている。

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