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カテゴリ:草加市の石仏
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柿木町の石仏、最後は室町時代創建と伝えられる古寺、東漸院の石仏を見てみましょう。 東漸院 草加市柿木町1286[地図] 県道102号線 柿木町交差点の150mほど北の交差点を右折、柿木公民館の前を過ぎてさらに東に進むと、道路左側に東漸院の入口があった。参道の先に大きな屋根の山門が立ち、参道の両脇は墓地になっている。 入口から入ってすぐ左に三基の石塔が並んでいた。 左 六地蔵塔 万治2(1659)四角い台の上、板碑型の石塔の正面に、地蔵菩薩立像を三体づつ縦二列にわたって浮き彫り。台の正面には蓮の花が彫られている。 六地蔵の間の長細い部分、梵字「カ」の下に「奉造立六地蔵念佛結衆等二世安樂攸」上部両脇に造立年月日。下部両脇に諸衆等 敬白。さらに願主二名の名前、足元の部分に十六名の名前が刻まれていた。 中央 阿弥陀如来立像 元禄4(1691)四角い台の上、舟形光背に来迎印を結ぶ阿弥陀如来像を浮き彫り。光背上部が欠けている。 近づいて見ると尊顔の周りにはびっしりと銘が刻まれている。人の名前だろうか?光背の両脇にも同じような感じで銘は見えるのだが、どうやってもこれがうまく読み取れない。拓本を取ればはっきりすると思うのだが・・・資料によると右脇に「奉供養寒念佛成就攸」同行五十人。左脇に造立年月日が刻まれているらしい。 右 地蔵菩薩立像 享保18(1733)四角い台の上、舟形光背に錫杖・宝珠を手にした地蔵菩薩像を浮き彫り。円形の頭光背を負う。塔全体に白カビが多い。台の正面に「法界霊塔」と刻まれていた。 光背右脇に「従是西柿木村東漸院薬師道」道標になっている。東漸院への道標なのだから、どこか路傍に立っていたのだろう。白カビが多いのもそのためかもしれない。左脇に造立年月日。その下に施主 百万人講中 。願主 長慶と刻まれていた。 参道の先の山門は市の指定文化財。手前両脇に二基の石塔が並んでいる。 門前右 敷石供養塔 明治2(1869)角柱型の石塔の正面 梵字「カーン」の下に「敷石供養塔」塔の右側面に造立年月日。左側面に當山廿五世法印光諄と刻まれていた。 門前左 供養碑 享和2(1802)角柱型の石塔の正面、偈文の下に大きな字で「供養碑」偈文は法華経観音普門品の一節。下の台の正面に「阿日山」 塔の左側面に造立年月日。右側面にも銘があるが、他の面の銘と較べると字が小さく彫りも浅い。中央に「爲本末先師尊㚑有無兩縁菩提也」右脇に明治10年の紀年銘。左脇に二十五世法印光諄。こちらは後刻されたものらしい。 山門をくぐってすぐ左側は歴代住職の墓地になっていた。宝篋印塔、卵塔、五輪塔、像塔、江戸時代初期の墓石も多い。 正面に大きな二基の五輪塔。右は万治2(1659)年、左は寛文9(1669)年の紀年銘が刻まれている。 左側に三基の地蔵菩薩塔。左から正徳6(1716)年、貞享2(1685)年、享保6(1721)年の紀年銘。さすがに歴代住職の墓石、風化の様子もなく美しい状態を保っていた。 本堂の左手前の植え込みの中に宝篋印塔が立っている。屋根型の笠を持ち、塔身四面に梵字が刻まれる。反花付きの台の正面に阿日山廿三世と刻まれていた。 基礎の正面 中央に「弘法大師御遠忌供養塔」右脇に金輪聖王 天下泰平、左脇に天長地久 國土安穏。左側面には「宝筐院陀羅尼経曰」で始まる長い銘文。 基礎の裏面に造立年月日。台の左側面から裏面にかけて現住光覺建立之。 基礎の左側面 中央に「奉再興」廿五世光諄代。左脇に明治元年の紀年銘。山門前の二基の石塔にもその名があった第25世 光諄という人は、明治初期に積極的な活動をされたご住職だったようだ。台の左側面には浅草の石工の名前が刻まれていた。 資料「草加の金石」によると東漸院には元禄13年から寛政4年にかけて造立された5基の青面金剛庚申塔があるということだったが、これがまったく見当たらない。何度か訪問して境内のあちらこちら探し回ってもうまく見つからず途方にくれていたのだが・・・・ブログ「東京・神奈川の庚申塔」のブナの森さんから情報をいただいた。ご住職に確認したところ、墓地の改修工事に伴って本堂裏手に移動保管され、以降そのままになっていて、今のところ公開する予定はないとのこと、見ることができないのは残念だが、破棄されたのではないことがわかり安心した。 これで柿木町も終わり、「草加市の石仏」もオールアップと言いたいところですが、青柳町の三覚院などまだ少しやり残しがあります。もうしばらくお付き合いください。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022.10.03 07:47:55
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