私家版 さいたまの石仏

2024/05/19(日)06:40

緑区中尾 大聖不動尊の石仏

さいたま市緑区の石仏(63)

ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら 中尾に入ります。まず南の地域を大聖不動尊から回って、次に吉祥寺周辺、北の地域へ進みたいと思います。 大聖不動尊 緑区中尾237​[地図]​ 国道463号線越谷街道の緑区役所北交差点の150mほど西、街道の南裏に大聖不動尊がある。入口はぐるっと回って南に回り込んだ先、正面に本堂が立っていた。 参道左側に小堂が立ち、中に六地蔵と大きな地蔵塔、その右脇に三基の石塔が並んでいる。 小堂の中 六地蔵菩薩塔 寛政10(1798)丸彫りの六体はよく揃っていた。蓮台の下の角柱型の石塔の正面、右から2番目に造立年月日。左から2番目には中尾村 不動谷戸と刻まれていた。 その隣 念仏供養塔 元禄7(1694)大きな蓮台の上に丸彫りの地蔵菩薩立像。江戸時代初期の古い石仏だが白カビはなく風化の様子も見られない。軽くうつむき加減な尊顔は理知的で美しい。 蓮台の右のほうに造立年月日。続いて「奉建立念佛供羪爲二世安樂也」中央上部に梵字「カ」 蓮台左に施主 當村 善男善女と刻まれていた。 小堂の脇の三基の石塔。左 庚申塔 元文5(1740)唐破風笠付き角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中に日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。 頂上が扁平な髪型、直角に曲がったユニークな二組の腕(H型)さいたま市内では十数基、緑区と見沼区(1基)に限って見られる「川口型庚申塔」である。さいたま市内の川口型庚申塔の造立年は享保4(1719)~宝暦2(1752)の33年の間で、1740年までは合掌型、1742年~1752年は鈴・ショケラ持ちと分かれる。 足元の邪鬼はずんぐりした猫がうずくまるような姿勢、頭が左で首をかしげるようにして正面を向く。その下に三猿。中央が正面向き。両脇は内を向き、足を投げ出すようにして体を後ろに傾ける。邪鬼と三猿の間に二鶏が浮き彫りされていた。 塔の左側面に造立年月日。続いて木崎領中尾不動ヶ谷戸邑。 右側面に「庚申供羪塔」その下に講中拾六人と刻まれている。 中央 出羽三山供養塔 文化12(1815)角柱型の石塔の正面、梵字「アーンク」の下「月山 湯殿山 羽黒山 供養塔」 塔の右側面に造立年月日。左側面に世話人の名前。塔の下の台の正面に「講中」と刻まれていた。 右 庚申塔 元禄9(1696)唐破風笠付き角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、日月雲「奉建立庚申尊像當處安全所」その下に敬白。上部両脇に造立年月日。右下に願主 金剛寺傳海。左下に施主 當村善男善女。 台の正面にぬいぐるみのようなふっくらとした正面向きの三猿が彫られている。 墓地は本堂の裏に広がっているが、右手前の一角にも石塔が並んでいた。その多くは墓石だが、中に二基の月待塔がある。特定の月齢の夜に集まり経などを読み月を拝む「月待行事」を行った記念に建てた石塔で、江戸時代、特に文化文政期のころに全国で流行したという。 写真の右端 二十三夜塔 文化2(1805)角柱型の石塔の正面「廿三夜」右下に志んまち道、左下に者とがや道。志んまち=新町、者とがや=鳩ケ谷。草書体と変体かなで読みにくい。 上部 舟形に彫りくぼめた中に勢至菩薩立像を浮き彫り。狭い中に細かい彫りがされている。 塔の右側面 北 大みや うらわ 道。これは読みやすい。 塔の左側面 南 戸田 王らび 道。王らび=蕨。その下に村々安全 家門長久 子孫冨榮 諸願成就。奥に造立年月日。その下に願主の名前が刻まれていた。 左 二十六夜塔 文化4(1807)角柱型の石塔の正面「廿六夜」右脇にうら王道。うら王=浦和 上部舟形に彫りくぼめた中に六臂の愛染明王坐像。二十六夜塔じたいが珍しい希少塔である。 塔の右側面 南 王らび 戸田 江戸 道。王らび=蕨 左側面 北 大ミや 者らいち 奈んぶ い王つき 道。大ミや=大宮 者らいち=原市 奈んぶ=南部 い王つき=岩槻。 背面 東 八丁 こしがや 者とがや せん志由 道。者とがや=鳩ケ谷 せん志由=千住。続いて造立年月日。さらに武刕足立郡中尾村 不動ヶ谷戸 芦谷と刻まれている。二つの月待塔はいずれも街道の辻に立っていたのだろう、立派な道標になっていた。

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